ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

身体をめぐる諸問題

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少し前に「サブカルの作品における身体性についてまとめてみてほしい」と珍しく依頼があったので記事としてまとめた。もともとは勉強会の先行資料として依頼を受けたため、今現在私が気にかける問題のみ扱い、諸方から恣意的に作品をひかせていただいた。本サイトで既出の作品を中心に、これまでに触れた身体の問題をやや体系的にまとめ直す試みである。個々の節は独立しており、それぞれ関係する部分もあるにはあるが、特に意識して関連づけることはしなかった。

ここでとりあげる物語および記事を既読の方向けの内容となるため、あらすじや内容詳細を踏まえる手続きを省略しており、未読の方にはわかりづらい記事であると思うが、そこのところはご容赦いただきたい。

 

●他者の自有化(『ぼくのたいせつなもの』)

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市川浩が心身を切り離せないものとして認識したように、相手の身体を受けいれるというのは、多くの場合相手の心を受けいれることをも意味する。アダルト・ゲームで描かれてきた性行為による受けいれはその典型で、身体を受けいれることと心を受けいれることはほぼ同じ意味をもつ。その慣習的行為を逆説的に捉えてみせたのが『ぼくのたいせつなもの』であった。

アンドロイドである冬木の臓器が人間の岡崎に移植されることで、結果的には、周囲が否定しつづけた彼女の人間としての自己同一性が肯定される。自身の臓器が他者の生を生かすという可能性に冬木は自分の自己存立とその意義を見出すに至った。移植臓器だけにその存在意義を求められていた冬木の自己は、まさに脱中心化された迷える自己像であると言えるが、最終的には岡崎の生の司る“場所”として最中心化するとともに、岡崎の生と冬木の生は分かちがたく融和するのである。これは稀に見る身体受容の描かれ方でもあったように思う。

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自分が誰なのかわからない、というJ・L・ナンシーの疑問は岡崎にもそのまま当てはまる。確かに心臓は命を司るものだが、他者の心臓を移植しても、移植者とドナーの人格が入れ代わることはない。ひとはあらゆる要素から成る「錯綜体」であり、身体の器官とその役割がすべて解明できたとしても、なぜ人間が“生きられるのか”は決して明らかにならないとされる。市川浩が身体=精神というモデルを提示しなくてはならなかったのもそこに大きな理由があった。

これまでは誰かの心が誰かの心を生かす、という関係性が多く描かれていたのが、医学発展の著しい現代に生まれた本作では、誰かの心身が誰かの心身を生かすという、新たな実践が物語としてとりあげられたのである。“私とあなた”の関係性が、社会学的な両人の間ではなく、生物学的な両人の間で描かれ、なおかつふたりの間ではなくひとりのうちに埋めこまれていったところが、なんとも悲愴を誘う物語であったと言える。

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●心身合一の解体(『SAO』)

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仮想身体で仮想世界を生きる『ソードアート・オンライン』。仮想身体がゲーム内で運動している間、現実の身体は一切運動することがない。しかし意識は同じように身体が“運動している”と認識するため、仮想身体で負った傷がときおり現実の心身へも影響を及ぼす。

一見すると『SAO』は、心身合一を完全に否定した、西欧的な心身二元論に立脚しているかのように思われる。実際に被験者の脳をあやつり、文字通り他者を“自有化”する場面も本作では描かれた。しかし先述のように、仮想世界での身体的影響が現実身体にも及ぶことを踏まえれば、ここに完全な心身二元論をもちこむのは難しく、仮想現実の身体経験が予想以上に複雑な問題を孕むことがわかるだろう。そういった問題をポップ・カルチャーの作品で展開したという意味でも『SAO』の果たした功績は大きいと言えるのではないか。

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主体的身体と客体的身体、内面的身体と外面的身体の一致した錯綜体が身体である(市川浩『精神としての身体』)。しかしこれがもし一致しなくなったとしたらどうなるのか。こうした特異な状態に心身が陥るのは、これまでは統合失調症などの病理に限られていたのが、仮想身体の導入によって誰もが現実的に経験できるものとなりつつある。近い将来、ヴァーチャル・リアリティの技術がさらに発達したのち、仮想身体をめぐる新たな身体論が準備されることは疑う余地がない。

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●他者の心身(『夏空のペルセウス』)

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夏空のペルセウス』では他我理解のifが描かれた。相手の身体的な痛みを理解できるという、ウィトゲンシュタイン大森荘蔵が怒りだしそうな設定ではあるものの、ここでは軸足をそこに置くべきではないだろう。本作では透香の対他身体/主体身体が森羅の対他身体/主体身体と完全に一致し、彼は透香の背負った痛みを文字通りの意味で理解する。しかしその結果として彼女から受けたのは軽蔑の言葉と眼差しであった。

他者の痛みを理解できないという哲学で定番の問題が、いかに実際的でないのかがここからはよくわかる。相手の痛みがわかったところでそれは必ずしも他者の心の理解に結びつくものではない。アダルト・ゲームのお約束である、心の結びつきの証左として身体の結びつきを経験させる受容のあり方を、いともたやすく転覆させてしまったのが本作なのである。

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痛みを移す自らの能力を森羅はひどく嫌悪し否定する。そのようにして自分の心と身体を一度切り離した森羅は、ヒロインたちと様々に関係する毎日を通じて、自分の心身の関係を再定義してゆくのである。自分自身と向きあうことを心の一義的な問題とし、身体は恋人と向きあうために、痛みをとり除くために使う。そうすることで相手との関係をよりよいものにしようとする主体を、ほかでもない自己として定義する物語、それが森羅と透香の物語であったと言える。

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●商品化される身体(おまけ)

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カイバ』では心身二元論を突きつめた場合の悲劇的な末路が描かれた。チップに記憶を移して好きな身体にのりかえられるため、工場で身体が大量に生産されるような社会となり、身体が“消費される”おぞましい時代がやってくる。徹底した心身二元論の果てにあるのは、価値のなくなった使い捨ての身体という現実である。人気のある身体のモデルは大量に消費され、街は同じ身体を“着た”人間で溢れかえり、商品化された身体は公的に、他者の記憶は秘密裡に取引される。やはりここにも新たな倫理モデルを必要とする数多くの問題がひそんでおり、近い将来にやってくるであろう様々な問題を、時代を先取りする形で提起した見事な物語となっている。

 

●付記

頭のなかを整理する、結論を出さずにあくまで問題の様相を整理する、というのが本サイトの目的なので、まあ上げても問題ないだろうと試しに書いてみた記事。私自身は心身を切り離せないものと考えており、そもそも身体に着目した論題を掲げること自体おかしいのだけれど、気になっていた問題を一度整理できたという意味では、今後なにかの役に立つかもしれないとは思う。