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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『LOVESICK PUPPIES』を読む(感想・レビュー)

ノベルゲーム(game) ノベルゲーム(game)-LOVESICK PUPPIES 感想・考察(レビュー) 感想・考察(レビュー)-LOVESICK PUPPIES

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良作のなかの傑作。私のなかでは名作。テキストが抜群によく、こんなにしっかりとしたものを書けるライターはそう多くはいない。盛りあがりに欠けると言われるものの、文学が専門の私にしてみれば「盛りあがりい?はあ?」という感じでまったく気にならず。それよりも随所に光る言葉の力強さや彼らの子供離れした思考、どころか大人をも凌駕する機転と機知にはもはやため息が出る。水もしたたるいい男崇村の無双っぷりも必見。

 

●慣習的展開の敷衍:空小路√

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『ラブパピ』は全体として、そっとしておく、信頼して任せる、というすかした態度ではなく、信頼しているからこそ真正面からぶつかる、お節介にも泥くさくまとわりつく、という態度を貫く気持ちのよい物語。相手を気遣って相手の言うことを尊重するのではなく、自分のわがままと相手のわがままが両立するよう策を講じる。そのわがままのぶつけあいを崇村たちは信頼関係と呼ぶ。思ったことをきちんと言葉にしていいんだという、言いすぎることもひっくるめたうえでの肯定の物語である。上手な距離のとり方など考える必要はない。“言いすぎ”を受けいれられるのは相手を信頼している証拠である。そこにたどりつくまでの過程が、ラ・ニーシュでの疑似家族生活を通じて丁寧に語られる。

本作における“距離”という問題はなにも人間関係に限らない。過去との距離のとり方もまた、どのルートにおいても、大切な切り口となっている。空小路の壊れたペンダントは両親に買ってもらったものだが、それを崇村が別の形――チョーカーにつくり変えて彼女にプレゼントしなおすくだりがある。どうにもならない過去をもう一度ひき受け、別の形で未来にひき継いでゆくという、時間についての問題意識がここでは切実に語られた。このあたりは、麻子からもらった恩を別の人間に返していった、グリザイアシリーズの雄二のようだと言えるかもしれない。

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過去の出来事や自分とどう付きあってゆくかについて、たとえば木村敏は、「『私自身の過去という他者』を三人称化することなく一人称的に引き受け、それと同化する限りにおいてのみ、私自身でありうる」(木村敏『関係としての自己』第Ⅰ章)と述べた。客観的にそこから学ぶという態度よりも、過去の経験が血肉となったいまの自分で、ありのままに現在と向きあえばよいとする態度である。時間が経てば過去に対する見方も大きく変わることがある。過去とは不変の客観的リアリティではなく、現在によっていまなお形を変えつづける主観的アクチュアリティとして捉えるべきものである。だからこそ本作では「とり返しがつかない」と過去を否定的に省みるのではなく、現在や未来の実践を通じて、それを別の形で解消していけばよい、という答えが提示されたのだと言える。

忘れて幸せになれる記憶なんてない、という崇村の言葉に象徴されるように、本作では悪いこともなにか見方を変えれば現在の滋養となる、という点が随所で強調されていた。過去をのりこえ自己確立するビルドゥングス・ロマンはノベル・ゲームの慣習的定式でもあり、そこにうんざりしてきたひとたちもいるだろうから、本作はぜひそんなひとにこそプレイしてもらいたい物語である。minoriが得意とするように、同じ型を使いながらも、たどりつく道筋がちがうだけで大きく印象が変わるという、よい例でもあった。

 

●関係の責務

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まるなの両親の件や、捨てられたり傷ついたりした動物を拾う崇村少年の話、空小路の家庭の事情も然り、「保護する」、「育てる」ことの責任を改めて問いなおし、その重さや価値と本作は真摯に向きあっている。このあたりは『わんことくらそう』を思い起こさせる主題でもあった。

愛犬カリユの挿話では特にそのあたりが丁寧に描かれる。愛犬をしつけ、世話をし、看取り、残された悲しみを噛みしめるところまでが、生きものとともに生きることである。ペットロストでおかしくなってしまった崇村少年を見て、保科がカリユの墓を堀り返し、崇村を返して、と叫ぶ場面はなんとも痛ましい。残されたものがどう死者と向きあうのか、これもまた前節と同じく、距離のとり方という問題に根差すものであった。

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また志穂さんがまるなに箸のもち方を教えるひと幕がある。おじの家庭でずっと疎まれてきたまるなは、ただ「注意される」ことと「叱られる」ことのちがいがわからず、いつもすぐに萎縮してしまう。そんなまるなに志穂さんは、言葉遣いなどの常識をひとつひとつやさしく教えこんでゆく。「孫に笑われないために子供をしつける」とか、「相手のためを思ってそのひとを傷つけた人間は、それを自覚して最後までその姿勢を貫かなくてはいけない」とか、「相手をふりまわしたっていい、その手をずっと放さなければ」という彼らの態度はとにかく真摯で説得力があった。大人から受けた教えを子供たちどうしで実践し、そのやりとりのなかで互いに成長する様子を見て、大人を表に出さずに誠実な大人の常識を提示するという、これは見事な技巧に満ちた物語でもあると感じた。

 

●制度としてのapprenticeship

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この物語では、実際の仕事に近い形で、あらゆる校内の運営を生徒に請け負わせている。これは学生生活を社会に出るための順応期間と見做し、社会教育を施すというものであり、この試みがなかなか面白い。学園活動の一環として、生徒たちはサービスや商品を実際に提供しながら、文字通り地域に労働力として貢献する(ボランティアではないので対価がある)。だからこそ彼らのやりとりにもやや仕事の感があり、崇村の仕事も――こちらはボランティアなのだが――きちんと報告書作成の義務などがある。活動を通じて彼らは十代のうちから仕事の基本手順をすりこまれるのである。この作品の社会では、偏差値しかなく現場でまったく使えない人材を大学に上げるのではなく、現場で即戦力の人材がさらに教養と才能をみがくために大学教育が据えられているようだ。現実(我々の)の中等教育においてはキャリア教育に力が注がれはじめてはいるものの、まだまだ途上の段階であり、おそらく国が最終的に見据えているのは、本作で描かれたような人材を育てる環境の整備なのだろうと個人的には思った。

 

●付記

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「保護する」、「育てる」ことについて記事のなかで言及したが、崇村が何度も逡巡する「そのひとに踏みこんでいくかどうか」という問題は、彼が拾ってきた動物たちや愛犬カリユとの経験にその端緒がある。責任がもてないのに動物たちを拾って飼うなどあってはならないことであり、そういった動物たちや愛犬との挿話についても、丁寧に語られていたところが私の心にとても響いた。

秀作と言えば簡単だけれど、世の中にある様々な“関係”のなかでどう自分を位置づけるか――つまりはどう他人や自分、あるいは周囲の物事と向きあうのかを、真摯に考えた作品である。こういった、自分がはじめからもっていたものを改めて見出し成長する物語は、私は結構好きなのです。