ワザリング・ハイツ -annex-

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『象が踏んでも』を読む(感想・レビュー)

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堀江先生の姿は何度もお見かけてしており、こちらが一方的に身近だと感じている作家でもある。私の先生の友人である日本文学の先生も、いま日本で一番いい小説を書くのは堀江だ、と酒の席で言っていた。確かに堀江先生の受賞歴はすさまじい。本当に日本人っぽい――とあえて言わせてもらう――小説を書く方であり、構造的な物語をつくらないひとなので、どう読めばいいのか困惑した作家でもあった。

一冊買っては途中まで読み、次を買って途中まで読み、あげくの果てには読まないのに次々と買い、うちには堀江先生の本がたくさん積んであるのだが、絶対に読みたくなる作家だとわかっていたのでそのまま買いつづけた。先日ようやくぴたりとくる一冊に出逢ったのでこうして筆をとった次第である。読んでみれば、小説ではなくエッセイ、しかもシリーズものの四冊目という、なんとも中途半端な一冊であり、しかしだからこそ堀江先生の味を理解することができたのかもしれないとも思う。

堀江先生の小説は、あるイメージが別のイメージと結びつき、それがまた別のイメージに渡され、その橋渡しが連続するうち気づけば遠くまできていた、というものばかりである。物語ることを巧妙なプロット操作くらいにしか考えていないひとには到底つくることのできない物語の形だ。こうした物語は以前から気になっており、たとえば多和田葉子の『雲をつかむ話』や朝吹真理子の『流跡』、あるいは江國香織の『ホリー・ガーデン』なども同様に、物語というものを起承転結なしに語る小説が多くある。推理小説や感動長篇のもたらすいわゆる“昇華”というものを欠いた小説群である。どこから読んでもかまわないし、プロットでなくあくまで描写が命の、文学らしい小説と言ってよいと思う。

いまアメリカの大学院にいる友人に以前『雪沼とその周辺』をすすめたら、老後に読みたい渋い小説、と称讃の声が返ってきて、思わずうなずいたのを憶えている。小説と同様エッセイのほうもイメージからイメージへと連なり、読み手の私たちもまた、自分たちのイメージをそこにもちこんで本と対話することができる。

頼りになるのは誰か? 来るべき時間のなかでそんなふうに考えるのではなく、あのときの、あの言葉が励ましになっていたのだと心が回復したあとで納得するほうが、私には自然だと映る。立ち止まるのではなく、前に進みながら後ろを振り返る。そのときはじめて、自分といっしょにいてくれたものが、姿かたちのない言葉であったと理解できるからだ。

掛ける言葉、掛けられる言葉は無限にあるのに、救われたという感触をもたらすまで育っていく言葉は、じつに限られている。(「釣り針のような言葉」)

この一節から呼び起こされたのは、先に『たまゆら』の記事で書いた、すでにあった過去のきっかけを見出して未来を切り拓くさまである。そのときには気づかなくとも、時間が経ったあとでふいに息を吹きこまれ、いきいきとよみがえる言葉がある。ホーフマンスタールの言葉をひきながら、それらは「釣針のように呑みこんで、泳ぎつづけて、いまだにそれに気づかない」ような言葉であると、本書には書かれてあった。

また別のエッセイにはこんなものもある。

じっとしている者が、吹かない風に、見えない光にうながされて、いままで知らずにいた自分の裏側を覗く。すると、やはり知らずにいた他者の裏側も見えてくる。(「真夜中の庭に、ひとつの助詞を」)

ここで思いだしたのはウィトゲンシュタイン木村敏の主張である。ウィトゲンシュタインは対象の認識というものを、自分が対象をどう見ているか、感じているについての表明であると捉え、物の見方を“そのひとの生き方”として受けとめようとする。「あなたは~というひとだと思います」と考えることは、私がそういう考え方をする人間であるという表明になる(「『紙の上の魔法使い』を読む 後夜」の記事を参照)。木村敏も同様に、そうした生き方/態度の交換がコミュニケーションであり、その差異のなかで自己を獲得してゆくのだと述べた。だからこそ堀江先生が言うように、こちらの生き方や考え方が変われば、おのずと他者の見え方も変わってくるのだろう。

さらにこのエッセイは次のような言葉で締めくくられている。

本を読むこと。二読三読し、言葉と言葉の、行と行の、頁と頁のあいだに隠れた十三時の扉を幾度もくぐり抜けて、「だれかよその人の時間のなか」に入り込むこと。

この一節は『レヴィナスと愛の現象学』の冒頭で内田樹が書いた言葉ときれいに響きあう。

レヴィナスのような難解なテクストの場合だと、「自分の家」にとどまる限り、絶対に理解できない箇所にひんぱんに遭遇する。やむなく「その人の家」に仕事場を移してこつこつ仕事をしているうちに、だんだん体感が変化してきて、それまで見えなかった論理の「みちすじ」が見えてくるような気がしてくる。その「みちすじ」はおそらくレヴィナス自身がたどった思考の歴程にかなり近いのではないかと思う。(内田樹レヴィナスと愛の現象学』第一章)

こういうテクスト間の響きあいに偶然出逢うたび、私はいつも深い喜びを感じるとともに、文学に携わってよかったと心から思う。

計算高く分析しながら言葉を追う読み方もまた文学にはあるけれど、つれづれなるままに言葉の生みだすイメージを追いかける愉しみもまた、文学のもつ魅力をひきだす読み方のひとつであろう。堀江先生の書物はそういう文学のもつ素朴な色合いを穏やかに紹介してくれる言葉に溢れていると思うのだ。