ワザリング・ハイツ -annex-

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『最終試験くじら』を読む(感想・レビュー)

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あまりにもひどいテキストなのになぜか擁護したくなる作品のひとつ。シナリオの大半は語るに値せず、十代の素人でもここまでひどいテキストは書かないだろうと言いたくなるレベルであり、私自身まともに読んだテキストよりスキップしながら斜め読みした量のほうが多いと思う。そこまでひどい作品なのにこうしてわざわざプレイしたのには無論それなりの理由がある。

それでは、私による私のための私本位な『最終試験くじら』の擁護をはじめます。

 

●真実という誤謬(春香√/紗絵√)

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睦(むつみ)と春香は旅芸人の一座に属する役者であり、彼らの芝居を通じてくじらの世界構造が語られるという、慣習的なメタフィクションの手法が本作でも用いられた。睦の相手役として選ばれた妹の春香は、自分とかけ離れた性格の、姉御肌な女役を演じることになる。これによって春香と睦の関係にも変化が訪れるといういわば代理体験の物語でもある。睦に対し姉のようにふるまい、そして恋人としてふるまうという、二重の代理体験によって、何層にも重なった関係変化が描かれる。ここはかなり根が深く、主題を捉えるうえでも、あるいは春香と紗絵の想いを受けとるうえでも、見逃せないやりとりが数多く展開される。

春香の演じる春姫役には、紗絵の存在も重ねあわされており、芝居自体を通して睦の心にゆさぶりがかけられる。春姫が死ぬ場面では、春姫の科白を通じて、紗絵が睦の心から永遠に消えてしまうというくじら世界の未来が語られる。また、春香は睦の生みだした空想の人物(imaginary friend)であるために、舞台後に睦が漏らした「春香は・・・・・・本物だ!」という言葉は、春香が本当に役と一体になっていたという讃辞でありながら、その一方で、彼女が決して架空の存在ではないという意味をも併せもつものだった。木村敏ニーチェの言葉に託して書いたように、それがなければ生きられないような誤謬は、そのひとにとって噓偽りのない真実なのである*(『偶然性の精神病理』「Ⅱ真理・ニヒリズム・主体」)。

*ニーチェ『権力への意志』(断章493; ちくま学芸文庫版)

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睦と春香の演じる物語は、ふたつの悲しみを並列に語る。たとえ現実世界に戻ったとしても、春香を失う悲しみからは決して逃れられず、あるいは春香とともにくじらの世界を選んだとしても、睦は紗絵を過酷な現実にひとり置き去りにせねばならない。どちらの世界で生きるとしても大切なひととの別れがあり、その裏には、誰にも気づかれないまま、あるいは語られないまま忘れ去られる悲しみが隠されている。芝居のラストシーンで睦が語った、別れという「可能性の中で、春香との生活を続けていた」という言葉は、こうした非情な現実を暗に示すものでもあった。

各ヒロインとの密な関わりあいを描きながらも、実はすべて空想の産物でした、という現実が我慢ならない、と言いたくなる気持ちもわかる。しかしむしろこの物語からは、現実から逃げてもなお、豊かにひとと関わる世界に生きた睦のあたたかい心を感じるとともに、そんな世界を睦に与えた、紗絵の睦に対する深い想いの丈を私は感じた。そうした視点をとりながら本作を読むことで、私はどうしてもこの物語を擁護したいと思ったのである。

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春香の物語では特に、空想を自らの真実と捉えるにいたる、彼らの切実な想いが言葉を尽くして語られる。単に現実へ戻るべきだと説く物語ではなく、たとえ空想でも現実でも、それを自分の選んだ真実として貫き通す意志をもつ、そんな決意を語った物語が『くじら』なのである。

 

●内容に関する端書き

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・夢前春香は恣意的に生みだされた空想の存在であり、睦をひとりにしないための存在でもあるため、彼女が変化してしまうことを睦は面白く思わない。だがここで興味深いのは、芝居の稽古などを通して、春香が様々な役に入りこんで人々の心を動かしながら、周囲との関係性を少しずつ変化させ、自らの自己を新たにうち立ててゆくことである。その春香を受けいれるにあたって、睦自身も自己を変革し、春香に対する視点を次第に改めながら、彼女を“現実の存在”として信じるようになってゆく。睦はあくまで主体的に個々のヒロイン――特に春香――を選んだうえでくじらの世界にとどまっており、そのことを彼自身よく自覚している。

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・春香ルートにおける、病に冒された可奈の一件は、やや唐突ではあったものの、くじらの世界で語られたという点に大きな意義があった。彼女の恋人である葵の気持ちを睦は客観的に捉えているが、その背後には、同じように病に倒れた紗絵と睦自身の過去が垣間見える。

・仁菜ルートの結尾にも、心に響くくだりが多く見受けられた。幼児退行によって過去を切り離し、くじらのなかに、文字通り殻のなかに閉じこもる仁菜先輩を、かつて同じように閉じこもったことのある睦が救いだす物語である。自分から心を開くことで仁菜の心に働きかける、言葉を尽くした決死の説得は読む者の胸を強くうつ。

 

●付記

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本作をプレイしたあとは、FD(Progressive)のプレイ、もしくはOVA(こちらもProgressiveのほう)の視聴を強くおすすめする。物語の序章でありながらも、全体をまとめあげる役割も果たしており、これによって本当の意味で『くじら』が完結すると言える。紗絵と睦の両視点から肝要な部分が語られており、ひとつの物語としてもかなり心をゆさぶられた。

おそらくいまさら誰もプレイなどしないであろう『くじら』の擁護をしてきたわけだが、ネタバレを踏んだときから、この主題は自分にとってかなり切実なものだと認識していた。仁菜、春香、紗絵のルート終盤では、大切なひとを救いたいという切実な想いが、とても丁寧に語られていて本当に読みごたえがある。たとえ現実でなくても、それをひとつの現実として自分のなかにとり込み、豊かに生きる強さが本作ではいきいきと描かれており、だからこそ私は『くじら』をどうしても擁護したかったのである。

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