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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『PSYCHE』を読む(感想・レビュー)

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こんなに広いのに、その隅々までほんの少しの狂いもなく完全に行き届いているって、そんなこと、本当にあるんだろうか? もしそれが本当だとしたら、僕も完全に行き届いているのだろうか? 心も体も、それをつくる何もかもが正確に動作しているのだろうか?(10章)

本当は『死体泥棒』について書きたいのだけれど、あれは現実的物語としてすごくよくまとまっており、どうも話の糸口が見つからない。唐辺葉介名義の作品で一番好きな小説だからなのか、いまはうまく書けそうにない。そんなこんなで今回はやや微妙だった『PSYCHE』について書く。いやそれなりによかったけどね。

ひと言で言えば実に妙な小説だった。なにを目指して書かれたものなのかがさっぱりわからない。そこも含めて味があった、と言えばいくぶん聞こえはいいか。前半の三分の二は残りの三分の一のための前戯と思ってよい。前戯の長さでは18世紀フランス小説の比じゃないので私はあまり気にならなかった。

それでは当該の小説後半部についての議論へ。

 

●自己問答という内界の語り

瀬戸口作品では自己の負を投影したような人物との問答が頻出する。『CARNIVAL』では武が、『死体泥棒』では大前が、そして本作ではいとこの駿兄がその立場にある。いずれの場合も“僕”は彼らとの対話によって自分の考えを整理し、なにがしかの決断を下すことになるのだが、このあたりはドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』におけるイワンとその分身との対話を彷彿とさせるくだりである。もちろん瀬戸口なのでこの弁証法的問答の果てには否定的決断が待っている。そこが微妙なのであえて割愛し、結末に至るまでの問答の内容をとりだしてみたい。

この世界は途方もなく広くて、それなのに、全部のものが複雑に精巧に出来ているって情景がうまく想像出来ないんだ。どこか誰も見ていないところで、ルールがほんのちょっと狂ったりしても良さそうだ。(10章)

瀬戸口作品に親しいひとならこの一節を読んで次の一節を思いだしたかもしれない。

・・・・・・いっそのこと、何もかも全ての境界が壊れてなくなってしまえばいいのに。そしてこのあまりにも公平な現実世界を、少し歪めて欲しい。(『つめたいオゾン』)

“公正”と言いかえてもよいであろうこの問題については『CARNIVAL』の回にて詳しく書いおいた。簡単にまとめるならば、世の中が私たちに対して要請する正しさというイデオロギーが、私たちのほんの些細な“異常”をも許さないということになる。世の正しさは数の暴力で確立されるわけだが、その正しさと相容れないものをもつ人間は、総じて集団からのけ者にされてしまう。『つめたいオゾン』の花絵と同様、本作の直之もまたそんな正しすぎる世の中に対して強い疑義を抱いた。

駿兄が言うには、世のなかってすごく細かいところまで正確に出来てるんだって。でもそんなに正確なものだったら、壊れやすいでしょう? 時計だとかも、ちょっと歯車が欠けただけでとまっちゃうんだ。(10章)

隙がない正しさ、に対する疑問は、自分だけに見える亡霊や幻影を間違ったものだと認めたくはないという、直之の思いから発したものである。駿兄やアイ、あるいは姉との対話は、あくまで直之のそういったささやかな願望を前景化するためのものでしかなく、それが外界の出来事と結びついて彼の生き方に変化が訪れるわけではない。ここで物語の帰結についてとりあげないのはそれが理由である。

アイは直之にとっての“真実”であるがため、問答ののちにアイが空想の存在であると自覚した途端、彼の症状は悪化してしまう。ニーチェが言うように、「真理とはそれがなければある種の生物が生きられないような誤謬のことである」のだから、それが崩れ去った直之が生きる力を失ったのは当然の結果だと言える*。家族の死からはじまり、直之にとっての現実が次々とうち砕かれてゆき、どこにも出口は見つからず、彼はただひたすらに崩壊してゆく。正しさに対する強い疑義が、外界の出来事と結びついて学に変化をもたらすのが『CARNIVAL』であるとすれば、本作は正反対の志向をもつ物語であった。

*ニーチェ『権力への意志』(断章493; ちくま学芸文庫版)

訳文は木村敏のものを用いた(『偶然性の精神病理』「Ⅱ真理・ニヒリズム・主体」)。

 

●付記:救済者不在のリアル

救いようがないという面ではひとつ評価したい点がある。それは無論ヒロインすらも幻影であるというところである。アイは直之のimaginary friendであり、あの学でさえ理紗がいたのに、本作では徹底的に救いの糸口が絶たれていた。この点はとてもリアルだと思うしむしろこれが普通だろう。ラスコーリニコフにとってのソーニャや(ドストエフスキー罪と罰』)、かずきにとっての響子(柳美里『ゴールドラッシュ』)と、救済者がいて成立するリアルもあるけれど、この『PSYCHE』のような救済者不在の物語はむしろ、我々現代人にとっては身に迫るものがある。別作の『ドッペルゲンガーの恋人』や『死体泥棒』、『つめたいオゾン』も似た主題を扱っており、瀬戸口の非情な物語は今後さらに非情になることが窺える。いいぞもっとやれ。

記事を書いたのが半年以上前なのでほとんど内容を忘れていたが、手直しをしながら、わりと面白い話題を提供してくれる作品じゃないか、と再読したい気持ちに駆られた。現在『SWANSONG』を音をあげながらプレイ中なので、瀬戸口についての大局的な読みについては、まだ時間がかかりそうである。

⇒『CARNIVAL』を読む(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

⇒『CARNIVAL』(小説版)を読む(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-