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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『日本近代文学の起源』を読む

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本作を読んでの一番の収穫は国木田独歩の描写にふれることができた経験であった。独歩の描写をひきながら展開する「風景の発見」も然り、「内面の発見」、「告白の制度」と、どれもかなり力のある論考だったという所感。一年ぶりに読み返してみて、以前よりも見通しがよくなったという感じもあり、少しまとめておこうと決めた。

主に“読み”の姿勢についての話。誤解があるといけないので先に断っておくと、私はフロイト批判をしたいわけではない。彼の理論が悪い形で援用されてしまった時流を批判したいのである。

 

●後づけの意味深さ

なんでもかんでも意味づけをしたがる“理論的”読みの傾向は、諸方で指摘もあるように、西欧で猛威をふるった精神分析に大きな責任がある。本書で柄谷が展開する話には精神分析が行った悪をあばく端緒があった。独歩の書いた風景について柄谷は次のように指摘する。

たとえば、『忘れえぬ人々』では、それまで重要なものとみえた人々が忘れられ、どうでもよいような人々が“忘れえぬ”ものとなっている。これは、風景画において、背景が宗教的・歴史的な主題にとってかわるのと同じである。注目すべきことは、このとき平凡で無意味にみえる人々が意味深いものとして見えてきたことである。(「風景の発見」)

とるにたらないありふれたものが新たにいきいきと見えてくる不思議が独歩の描く描写にはある。歴史的意義をもっていた風景がその歴史性を失うことで、新たにその風景に別の意義を“求めざるをえなくなる”ため、平凡なものが意味深いものとして再発見されたのだと、柄谷は指摘する。つまりは、こうしてつくりだされた作為的な、後づけの意味が、その対象が先天的に含みもったものと解されてしまうという、認識の転倒が起こったのである。「どうでもよいような人々が“忘れえぬ”もの」となったのは、独歩が彼らに風景としての意味を新たに見出したからであり、それを潜在的に具わったものとするのはおかしい、と柄谷はこれを批判する。

私がフロイトの理論を糾弾したくなるのもまさにこの点においてなのだと言ってよい。本来特別な意味をもたなかったはずのものに、立証できない仮の物語を付与してしまったことが理由で、無意識の活動があたかも常に抑圧の物語を携えるかのように、必要もなく“解読”される時流が生みだされてしまった。これが本当の「深読み」である。

告白という形式、あるいは告白という制度が、告白さるべき内面、あるいは「真の自己」なるものを産出するのだ。問題は何をいかにして告白するかではなく、この告白という制度そのものにある。隠すべきことがあって告白するのではない。告白するという義務が、隠すべきことを、あるいは「内面」を作り出すのである。(「告白という制度」)

まさに「精神分析という告白の技術が深層意識を実在させた」(「告白という制度」)のであり、メタファーの生まれてくる原因やその発現自体は重視されなくなってしまった。意味内容・解釈を重んじる文学において精神分析が批評“理論”となったのもうなずける。それはテクストに隠された意味を生成する――捏造すると言ってもよいだろう――作業であり、すべてを記号と解して読む味気ない読解である。わかりやすく言うのであれば、これを客観主義と言いかえてもよい。客観的な、自然科学的実証を重んじるばかりに、人間の活動を環境から無理やりにひきはがしてばらばらに解体し、ひとつひとつ検分する、そんな態度が文学においても主流となってしまった。常に環境によって新たな自己を獲得せんとする不断の働きこそが主体である、とヴァイツゼッカーも『ゲシュタルトクライス』において述べていたが、そういった自己と環境との相即がここでは完全に黙殺されていると言わなければならない。「自己自身を自動装置やロボットや機械部品の集合と考えるような人間が狂気とみなされるのに、人間を自動装置やロボットのごとくにみなすこのような理論が狂気でないと言えるのか」、そう問わざるをえないだろう(R・D・レイン『引き裂かれた自己』訳者あとがき)。

精神分析は対象の意味を恣意的に生みだすものであり、ここに現象学精神病理学のとる現存在分析との立脚点のちがいがある。後者はあくまで病理の発生原因・様態を分析するものであり、症状の意味解釈を重視するものではない。文学を読む際も同じく、描写や場面を記号として読むのではなく、それらがどんな心の集積であるのか、どんな言葉を綜合した結果であるのか、その複雑に絡んだ糸をひとつひとつほぐすように読むほうが私にとっては好ましい。言葉や場面の象徴的意味や比喩的意味を特定する読みではなく、その言葉や場面がどのようにして形作られたのか、その背景を丁寧にたどるような読みこそが、自分にとっては意味があると、本書を読んで改めてそう感じた。

 

●付記

よく勘違いされるのだけれど、特にノベルゲームの記事において、私はいつも物語を深読みしたり新たな意味を見出そうとはしていない。書いてあることを整理して提示し、それと同じ主張をしている別のテクストをひいてくる、その程度のことしかしていない。だから私の記事は本来的な意味での考察ではないし――便宜上タグには考察というキーワードを採用しているが――新たな意味づけもしていなければ恣意的な解釈もしていない。

ではなにをしているかといえば、どんなひとにも精神病理の片鱗があり、その病と闘いながら自己存立を懸けて決死に生きる、そのさまをできるだけ丁寧に浮きあがらせているだけである。健常と異常の差などあってないようなものなのだ。誰しも心の病の症状が少なからず現れており、たまたまそれに気づいてしまった人々が、サブカルチャーの物語では特に多く描かれる。彼らがどうしてそうなったのか、その淵源がどこにあるのか分析することにより、彼らの生の力強さを学びとろうとしているにすぎない。こうした読みには“解釈”などはまったく必要がない。大切なのは整理であり、一貫した主題への気づきであり、理論分析がしばしば陥る人物の心から大きく離れた恣意的な意味づけを避けるための、素直に読もうという心意気である。

昔大学院のゼミで読んだときも苦情の嵐(特に女性陣から)が巻き起こったフロイト精神分析理論。彼の抑圧理論は、記号の意味を利用しつつ性的ファンタジーを捏造して、本当のあなたは心の底でこれを望んでいるのですよ、と押しつけられるようなものである。フロイトの理論そのものはあくまで臨床のために用意されたものであり、元々は不明瞭で扱いがたい病状を体系的に理解し、患者の病をなんとか快方に向かわせたいという苦悶のなかで生まれてきたものであった。それゆえ理論そのものよりもむしろ彼の理論が悪い形で普及してしまった世の中の悪を憂うべきであろう。

主に前半三章について、まとめたいことを好き勝手まとめた形であるが、「構成力について」の章では、物語に関する芥川と谷崎の論争にもふれられており、なかなか興味深かった。ただこのあたりは少し文献にあたる必要があるため、時間を置いていずれまとめてみたいと考えてはいる。