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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『SWANSONG』を読む 前夜(感想・レビュー)

ノベルゲーム(game) ノベルゲーム(game)-SWANSONG 感想・考察(レビュー) 感想・考察(レビュー)-SWANSONG

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なんだ、ただの文学か。現在の出版事情ではこうした物語を表に出すのは難しく、まさにアダルト・ノベルゲームだからこそ、実現できた作品といってよいのではないだろうか。それにしてもすさまじい力をもった物語であった。

オウムの事件は“物語”という天災がひき起こした変事であったが、本作もそれに近く、非人道的な物語がイデオロギーとして人々に根づいてしまうさまが描かれる。勘違いされがちだけれど、本作において震災そのものはどう考えても主題として着目すべき点ではない。これは震災を中心主題として扱った物語ではなく、異常な空間をつくりだす装置として震災を据え、異常が正常と大差ないことを暴きだした物語である。

二回にわたって本記事でとりあげる内容はすべて連続している。ただ便宜上、二夜に分けて整理するのが賢明と思い、例によって例のごとく、前夜は大局的な読みを中心に紹介していきたい。全篇にわたって展開する“正しさ”についての激しい攻防をまずはまとめてみたいのである。

 

●状況小説(a novel conditional)

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『CARNIVAL』『キラ☆キラ』では、個人の克服しがたい状況が表されたのに対し、本作ではある克服しがたい状況を様々な人間が等しく共有し、それぞれがどのように問題と向きあうかというさまが描かれた。これを“お話”と捉えた読者がいたのも大いにうなずける話である。『CARNIVAL』では、問題に対する学と理紗それぞれの姿勢が両者を結びつける糸ともなった一方で、本作では無数の人間が同じ問題を共有しているために、それが容易ではなくなっている。同じ姿勢を共有して関係が構築されたとしても(たとえば司たち主要人物六人)、同じ姿勢を共有した別の集団が現れ、姿勢の衝突が起きるのである。『CARNIVAL』で主題とされた、個人の生きる姿勢と世間の公正との軋轢ではなく、ある社会と別の社会との生き方が衝突するさまを、本作は詳述したと言える。その意味でこれは確かに「お話」的であり、より精確に言うならば、「状況小説(a novel conditional)」なのである*。*この場合は日本で言う「社会派小説」とほぼ同じ意味と解してよい。ノベルゲームでこの技法を用いた作品を私ははじめて見た。

一般に状況小説では――トルストイユゴーの小説、あるいはディケンズをはじめとする19世紀イギリスの状況小説を思い浮かべてもらえばよい――問題を一般化し、価値相対化をはかる目的がある。ゆえに複眼的視点を用いて相対化された価値を描出する語りが非常に多く、ある特定の価値を高く掲げることを目的としない。そのため、作中には様々な相反する価値が乱立し、互いにせめぎ合うような形で存在しうるのである。これによって本作でなにが実現されているかといえば、相対化された価値の異常、つまりは瀬戸口作品に通底する “正しさ”という暴力への批判的な眼差しであった。

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人々が掲げてきた正しさが通用しなくなった社会で、多くの者はすぐにその正しさを捨て、欲望のままに生きはじめた。それは彼らが世の正しさを自らに益するおりにのみ掲げてきたというなによりの証拠でもある。自分に都合が悪くなれば正しさは正しさではなくなる。そのさまを物語は淡々と暴きだしてゆくのである。そして新しくできあがった常識――自警団に歯向かう者は心身ともに撲殺され、権威にはひれ伏すべしという新たな“正しさ”――が、自分たちを恐怖に陥れると気づいたときにはじめて、そんなものは正しさではない、と主張しはじめた。それまでの健全な社会常識もまた、多数決の暴力によって弱い者を虐げてきたという事実を、彼らはこのとき思いだしもしないのである。

自分に都合の悪くなったときにだけ社会の常識を「正しくない」と主張する世間の矛盾を、冷たい眼差しで俯瞰した物語が『SWANSONG』なのであり、本作が公正の議論について他の二作品よりもさらに一歩踏みこんでいることは言うまでもない。

 

●正当化のパースペクティヴ

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女性を次々とレイプして殺したろくでもない警官を、最低のくずだからと一切情けをかけることなく、仲間とリンチして殺してしまったのが鍬形転落のはじまりである。相手が丸腰だった事実をあとで知ってもなお、「どうでもいいさ。どうせ死ぬべき人間だ」と冷たく吐き捨てた。相手の非人道的な行為を強く糾弾しながらも、自分も同じ非倫理的な行為を平気でするという、ここには正しさのパラドックスがある。彼は自分の否定した非道徳に自ら絡めとられてしまっている。

鍬形がやっていることが同じような非人道的行為であるのは本人にとっても自明であった。それではなぜ彼はこんなにも確乎たる意思でもって相手が間違っていて自分が正しいと主張できるのだろうか。そこには「世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味ももってはおらず、かえって無数の意味をもっている」とニーチェが主張したような、相手の価値体系そのものを存在しえないものとする、疎隔された価値空間の創造が見てとれる(ニーチェ『権力への意志』断章507; ちくま学芸文庫版)。

敵が称揚する価値を否定してその逆を主張している限り、敵の空間の内部にいる。空間の内部で対立する価値を称揚するのではなく、その対立空間それ自体を否定し、自分の空間の内部に引き入れて位置づけてしまわなければ、完全な勝利をおさめることはできない(永井均『これがニーチェだ』第一章)。

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永井が主張するように、鍬形はここで自分の行為を正当化するための新しい法をつくりだしている。「ひとを殺してはいけない」というすべての人間に共通の常識から外へ出るため、まずはその常識そのものを存在しえないもの――この非常時にはそんな常識は存在しないも同然である――とし、人殺しをするための組織を改めてつくりだすのである。飛騨を殺し、田能村を追放し、自らが長となることで、自分自身が法となる新たな社会をつくりだし、あたかもそれが別の社会の常識をも包含するかのような前提を人々にしみこませてゆく。こうして鍬形は新しい「正しさ」をつくりだすことに成功する。大智の会の面々を殺す自分たちの行為を、仲間たちを護るために矢面に立つ英雄的行為、と人々が正当化してくれるよう、秩序そのものを変えてしまうのである。これはまさにニーチェのパースペクティヴ理論そのもので、後夜にて引用する司と柚香の問答も然り、本作にはこのようなねじれた主題が多く提示されていた。

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なにかを否定すると、自分がその否定したなにかを実践してしまっていることに気づき、さらにそれを否定するため新たな秩序をつくりだそうとする。関係妄想にも似た矛盾と悪循環が、非日常的な環境にあって非情なほどむきだしになる。ある正しさが別の正しさによって凌駕され、それがまた別の正しさによっていともたやすく呑まれてしまう。そんな正しさをひとはいつも当たり前のように信奉して生きているが、悲惨な現実に生きることで、それがいかに脆くはかないものであるのかをようやく正視するのである。だからこそ、それでもなお正しさにすがって生きるべきなのかという、切実な問いがここから生まれてくるのである。

 

●付記

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もう二度とやりたくない。瀬戸口よ、いったいどうしてこうなった?(笑)ここまで徹底的に正しさを否定されてしまうと、ひとはどんな立場をとることもできなくなってしまうのだが、そのなかで血を流しながら生きる姿勢もまた徹底的に描かれており、もはやため息すらでない。見事なものである。

社会派小説なんか書いて、世の中のゆがみを正そうなどと瀬戸口が思うはずもなく、だからこそとってつけたようなあのtrue endよりもnormal endのほうがはるかに長く、詳述され、救いがないわけである。状況小説の性質を踏まえればこれは逆説的ではあるけれど、状況小説という形式はやはり、あくまで個人の主題に着眼するためとられた語りの枠組みである。この点については後夜にて詳しく検討したいと思う。

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冒頭でもふれたように、震災は本作の主題でもなんでもない。あくまで別の主題を描くために用意された舞台装置にすぎず、これを3.11の地震うんぬんと結びつけるのははなはだ筋違いというもの。本当に地震そのものを注視し、誠実に描いた物語は探せばほかにいくらでもあるので、そちらを読めばよいと思う。

内容以外について言えば、キャプションの出し方や書割のような演出をはじめ、グラフィックとテキストの意匠を凝らした演出も卓越としたものがあった。特別な技術を使わなくても、見せ方次第で画一化を逃れることができるという、これはなかなかの好例なのではないか。

それにしても、本作唯一の良心は本当に雲雀だけであった。

⇒『SWANSONG』を読む 後夜(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

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