読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

ヴィスワヴァ・シンボルスカを読む

f:id:SengChang:20170218120650j:plain

私が大学生のころに夢中で観た映画はクシシュトフ・キェシロフスキ(Krzysztof Kieślowski)の作品群である。面白いことに彼の代表作「トリコロール三部作」のうち『赤の愛』はシンボルスカの詩に影響を受けたものなのだという。そんな偶然も手伝って、おりにふれて、これまでほそぼそと読みついできた作家のひとりでもある。

シンボルスカ(Wisława Szymborska)の詩を読んでいてはじめに強い印象を受けたのは風景ないし自然に着眼したいくつかの詩篇である。“Landscape”では過去の「私」が風景として描きだされるところが面白い。

Just see how far behind I’ve left you,

see the white bonnet and the yellow skirt I wear,

see how I grip my basket so as not to slip out of the painting,

how I strut within another’s fate

and rest awhile from living mysteries.

 「あなた」の視点を織りこみながらいまの「私」が語りだすのは、絵のなかに描かれたまるで異質な過去の「私」の姿である。過去の私はいまの私と同一人物であり、絵のなかに描かれていない過去の出来事や時間についても、いまの私は知り尽くしている。そうであるにもかかわらず、過去の私といまの私とには大きな断絶があるのだという。いまの私にとっては遠く手の届かないものに感じられる時間として、自分を含めた昔という“風景”がここでは語られているのである。

こうした“過去という風景”の捉え方は、次の“Parting with a View”という詩でも同じように語られている。

I take note of the fact

that the shore of a certain lake

is still—as if you were living—

as lovely as before.

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

I am even able to imagine

some non-us

sitting at this minute

on a fallen birch trunk.

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

There’s one thing I won’t agree to:

my own return.

The privilege of presence—

I give it up.

 

I survived you by enough,

and only by enough,

to contemplate from afar.

 「自分がそこへ帰るということにだけは同意できない」と語り手は述べており、かつてその場所に住んでいた自分と、いまの自分との距離を、切なく率直に語りだした詩である。今度はむしろ、自分が現在の風景の一部としてその土地に在ることを想像できないと述べられており、よりいっそう過去との断絶を感じさせる詩連となっている。名作として名高いこの詩を読んだおりに私が思いだしたのは、エミリー・ブロンテ(Emily Brontë)が書いたゴンダル詩の一篇である“Why do I hate that lone green dell?”という詩である。

And leaning on thy generous arm

A breath of old times over me came

The earth shone round with a long lost charm

Alas I forgot I was not the same

 

Before a day — an hour passed by

My spirit knew itself once more

I saw the gilded vapours fly

And leave me as I was before

過去を思いだす最中では過去と現在の自分とが融和するように感じられるものの、語り手はふと我に返り、とり戻せない昔の自分を憂えるのである。自己の自同性を否定し、不連続の自己を受けいれられない葛藤がここでは語られており、シンボルスカの詩との響きあいを感じる作品である。

さらに自然についても興味深い洞察を見せてくれるシンボルスカは、“Conversation with a Stone”という詩で、シルヴィア・プラス(Sylvia Plath)やキャスリーン・レイン(Kathleen Laine)がとりあげた「石」というモチーフをとりあげている。語り手は石に対して、なかに入れてください、と頼むものの、石はそれをかたくなに拒みつづける。この詩では石はある種の象徴的意味をはらんだ“場所”として描出される。自然を過去と結びつくものとして描く傾向は、先のエミリー・ブロンテをはじめ、ワーズワース(William Wordsworth)テニスン(Alfred Tennyson)などイギリス文学に多い傾向でもあるが、“場所”として――“過去の場所”として――描いた詩人は、私が知る限りシンボルスカだけである。

It’s only me, let me come in.

I don’t seek refuge for eternity.

I’m not unhappy.

I’m not homeless.

My world is worth returning to.

I’ll enter and exit empty-handed.

And my proof I was there

will be only words,

which no one will believe.”

先の風景の詩と同じように、石もまた、過去の「私」がかつて在った場所として描かれているのである。執拗に過去にこだわる「私」に、「扉はない(I don’t have a door)」と石が冷たく吐き捨てたところでこの詩は閉じられている。過去への道が完全に閉ざされていることが示唆され、過去と現在の「私」の距離がここでは問題とされている。インガー・クリステンセン(Inger Christensen)もそうだが、20世紀後半における東ヨーロッパの政治的動乱の最中にあっては、過去と現在の自己の断絶は容易に生まれるうるものであったと推察される。これはまた日本と異なった自己の乖離への問題意識だが、ここに足を踏みいれるのはいまはまだよしておきたい。