ワザリング・ハイツ -annex-

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『猫物語』を読む(感想・レビュー)

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以前とりあげた『花物語』に続いて今回は『猫物語』(つばさタイガー)をとりあげてみたい。化物語シリーズのくどさは折紙つきであり、さらにはシリーズをある程度追わなければこの物語にはたどりつかないわけだけれど、改めて見てみると、なるほどこれは面白い。周知の事実だが、心の病は恋愛や家庭の問題から生じることが多く、その過程を一般向けになぞったのが羽川の物語だと言えるかもしれない。

 

●石化(Petrification)した世界

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羽川翼という私の物語を、しかし私は語ることができない」という一文から『猫物語』ははじまる。家庭の事情で何度か苗字が変わった経験をもつ羽川は、自身の自己同一性を名前にすら求められない子供であり、「私とは何なのか」という問いから自らの物語を語りだす。自己同一性にまつわるこのような羽川の問題が奥ゆきのあるものとして表出するのは主に戦場ヶ原との対話においてであった。

羽川の手料理を前にした戦場ヶ原が思わず首をかしげる場面。パン、サラダ、目玉焼きが、なんの味つけもされないまま出てきたのである。困惑する戦場ヶ原に、料理は味があってもなくても同じだ、と羽川は当然のように言う。彼女はもともとそういう選択肢をもたない環境で育っただけでなく、好みをもつということ、興味をもつということが喜ばれない家庭で暮らしてきた子供であった。羽川のゆがんだ価値観に対し戦場ヶ原は、嫌いなものがあるというのは好きなものがあるのと同じくらい大切なことだ、と穏やかに諭す。戦場ヶ原のこの指摘はなかなかよいところを突いていると思う。

羽川はなにかについて恣意的に意見するということをしない。味の好みも然り、他者や事物について「~である」と意見することは、すなわち自分はそういう考えをもつ人間だという自己表現なのである(ウィトゲンシュタイン哲学探究』)。その自己表現が許されなかったのが憂うべき羽川の背景である。だからこそこの物語は「私とは何なのか」という問いからはじまっており、他者や事物との関わり方、すなわちコミュニケーションというものがわからない羽川にとって、羽川翼という物語はまだはじまってすらいないのだった。そんな彼女が周囲の世界との関わり方を学ぶ物語が本作『猫物語』なのである。

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他者や事物と自分との関係をうち立てるのがコミュニケーションであり、なんでも受けいれられるというのは、コミュニケーションが一切開かれない生き方、つまりは疎隔と言いかえてもよい。なんでも受けいれられてしまう羽川に「白すぎる」、「白々しい」という言葉が使われるわけは、彼女が本当の意味では誰にもなににも興味がない、というまさにその一点に尽きる。そんな彼女がはじめて興味をもち、自らの白を黒に変えてまで心の底から求めた他者が、阿良々木暦だったのである。

白々しい羽川は生々しい自己を切り離したからこそ維持されうるものであった。羽川の負の自己、ブラック羽川は、自己保存の手段としての自己分裂から生みだされたものである。いまや慣習的となったこの心的手続きについて、画期的な理論的枠組みを最初に用意したのは、『分裂した自己(The Divided Self)』を書いたR・D・レインであった。

Such a divorce of self from body deprives the unembodied self from direct participation in any aspect of the life of the world, which is mediated exclusively through the body’s perceptions, feelings and movements (expressions, gestures, words, actions, etc.). The unembodied self, as onlooker at all the body does, engages in nothing directly.(4. “The embodied and unembodied self”)

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レインの定義からすれば、白すぎる羽川のほうがfalse self(偽の自己)=unembodied self(身体化されない自己)となり、その自己がどんな仕打ちを受けようが、それは偽物の自己なので、true self(真の自己)には影響がない。そのようにして世界から真の自己を守るというのがレインの論じたfalse-self systemであった。偽の自己は醒めた眼で真の自己(ブラック羽川)を見つめ、まるで他者であるかのようにふるまう。他者あるいは事物は、羽川にとっては「味があってもなくても同じ」だからである。これをレインは対象の「石化(Petrification)」と呼んだ。

In the attitude of indifference the person or thing is treated with casualness, or callousness, as though he or it did not matter, ultimately as though he or it did not exist. (4. “The embodied and unembodied self”)

周囲のなにもかもが石化してしまうのは、他者との関係だけでなく、その過程で構築する自分自身との関係にも大きな原因がある。あくまで羽川自身の問題だと臥煙や忍が述べたのはそのためである*。いくら他者と関係しようとも、そこに本当の自己を表出させなければ、いつまでも有機的な関係が築かれることはない。自分自身との関係を他者との関係のうちで捉えなおす――羽川にとってそれは、阿良々木への恋心と自覚的に向きあい、完膚なきまでにふられることであった。なぜなら、羽川の言葉通り、阿良々木が彼女に見いだしていたのは清廉潔白な心をもつ“白々しい”羽川なのであり、そんなものだけが自分ではないのだと、彼女はそれを強く否定しなければならなかったからである。彼を好きなあまりその誤った自己同一性を否定できなかった自分と訣別するため、阿良々木にふられることで、はじめて羽川は白々しい自分も黒々しい自分もすべて自分自身として抱きこむ自己を獲得するにいたった。そしてそこからようやく羽川と阿良々木の関係も“はじまった”のだと言える。

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*虎の言う「見たほうの問題」という言葉――虎を見てしまったということこそが問題だという捉え方は、本人が対象をどう解するかがすべてであって、そこに他者の入りこむ余地はないという意味でもあった。ニーチェの言葉をひいて木村敏が述べたように、幻覚や幻聴があるなら、それはたとえ他者にとっての幻であっても、本人にとっては紛れもない真実なのである。(『偶然性の精神病理』Ⅱ真理・ニヒリズム・主体)

 

●付記

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物語シリーズのくどい対話はいつも私にConversation novelsを思い起こさせる。Conversation novelsは19世紀イギリス小説に定番の手法であり、当時のイギリス文学を輸入して発展した近代日本文学にもこの伝統はしっかりと根づいた。日本でアニメやライトノベル、あるいはノベルゲームが根づいたのも、もともと物語を会話に準拠したものとして捉える慣習があるからではないかと個人的には思っている。ノベルゲームを考えるうえではまた、日本に紙芝居の文化があった背景も同様に見逃せない。

レインの著作は何度も再読しているのだけれど、これまであまり記事でふれる機会がなく、ようやくちょうどよい主題があったのでひかせていただいた。あまりよくは思われていないが、重要な理論的基盤をつくった大家であることは疑いえない。

sengchang.hatenadiary.com