ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

恣意的アニメ概論 後夜

f:id:SengChang:20170414100001p:plain

深刻な社会問題をアニメ化するなど不謹慎極まりない、と言う大人には、それでは若者が主体的に社会問題を考えたくなるような策を別に提示してみろ、と言っておく。語る価値のない作品もかなり多い表現領域だが、それなりに意義をもった、議論されるべき物語も根強く作られつづけている。

 

●「日常系」というジャンル

f:id:SengChang:20170414095148p:plain

日英の文学およびメディア批評を専門とするイギリス人のある先生が、NHK連続テレビ小説では日本の日常が描かれているが、それは私たちの日常ではない、と言っていたのをよく憶えている。もちろんこれは、日本人の日常がイギリス人にとっての日常ではない、という話ではない。連続テレビ小説ではとても特殊な仕事や生活の日常が描きだされており、普通に暮らす私たちには縁のない生活だ、と彼は言っていたのである。これは他作品、たとえば日常系アニメ作品についても同様である。*もうひとつ彼が笑って言っていたのは、出勤していやというほど日常のしがらみに絡みとられるというのに、朝から同じような日常を見せられたらたまらない、というもの。まったくその通りである。

「日常系」という言葉を使ってことさらに日常を押しだした物語を量産する国はおそらく日本だけであろう。しかも前述のように、日常ものが描く日常は私たちの非日常である。ここには「いったい誰にとっての日常なのか?」という問いが常に含まれており、私たち日本人が非日常という日常を欲する、ねじれた文化をもった人種であることが窺える(笑)。それがなぜなのか、という問いはあまりに大きすぎるのでここでは問わずに措くが、その源泉や背景についてはいろいろと思いあたるふしがある。

f:id:SengChang:20170414095155p:plain

たとえば『のんのんびより』の日常は、子供が数名しかいない村の学校の日常であり、一般的な「日常」とは大きく隔たった世界であるし、涼宮ハルヒシリーズや化物語シリーズ、さらには異界や異能ものなどは、より明白な形で日常を非日常化した物語群である。私個人はこうした日常ものがわりと好きなのだけれど、日常系という非日常の物語、と聞いて私が真っ先に思いだしたのは、実は日本近代文学私小説というジャンルである。

たとえば森鴎外の『舞姫』はまさに私小説の筆頭だが、彼の描いた日常――大きく演出されてはいるがほぼそのままの作家の日常――は、当然読者の日常とはかけ離れたものであった。ゆえに彼の日常(non-fiction)は小説(fiction)たりえた。さらに言えば、当時の日本はヨーロッパから“恋愛”を輸入したばかりであったため、恋愛的日常は根づいていなかった。だからこそ鴎外の生活は人々にとっての物語となりえた。その意味では、日常という非日常を描く潮流は、日本の伝統的な手法であるとも言える。それがアニメにおいてふたたび顕在化したとしてもなにも不思議なことはない。

そのほかに日本で顕著な物語ジャンルといえば、ハーレムものやConversation novelsなどが挙げられる。ハーレムアニメの起源を紫式部の『源氏物語』に見るというのはもはや通説だが、「美少女図鑑」などと揶揄される男性向け美少女アニメの源泉が、実は女性が書いたハーレムものだという皮肉な歴史を知っておいて損はないだろう。Conversation novelsについてはここでも何度かとりあげたので詳細は割愛するが、この背景を踏まえるならば、日本でアニメや漫画が発展したのは当然だと言える。さらには日本のノベルゲームは紙芝居文化にその淵源がある。ハイカルチャーをうまくとりいれて独自の発展を遂げたのがサブカルチャーであり、一見硬派な伝統とは相容れないように見えるものの、むしろそのうえに展開された分流であることは言うまでもない。

 

●社会的・文化的批評の成立

f:id:SengChang:20170414095224j:plain

サブカル批評についてはおそらくくり返すまでもないだろう。もともとハイカルチャーの分野で進められていた批評的試みが徐々に他分野にも浸透していったわけだが、サブカルチャーはその恰好の材料とされ、記号論精神分析理論の影響を強く受け、むしろ作品のほうからそうした理論批評を呼びこむような技法が用いられるようになった。私はそうした時流に対してはかなり懐疑的だが、人間関係そのものよりも物語構造ばかりが語られる空洞化した物語の傾向そのものは、とてもポストモダンらしい、と皮肉たっぷりに言っておきたい。

前夜でも述べたような、属性をもった交換可能な人物造形などが特徴のキャラクター中心主義、すなわち人物の記号化はもはやサブカル作品の前提と化している。あるいは、ゼロ年代に台頭したセカイ系の物語は、“君”か“世界”かの二択を主人公に迫る物語構造をもつ。ほかにも物語の型で言えば、日常系やメタ作品はもちろんのこと、ループものもいまなお定評があり、ノベルゲームでもかなり幅を利かせている範型である。こうした物語構造が前提となったがゆえ、型が同じ物語は展開が予測できるために、読者が入りこみやすいという状況さえ生まれており、作者はその点を踏まえたうえで、ある程度概説を省略して物語ることも多くなってきた。こうした類型化の時流はなかなかに興味深いと言えるが、ただの同じくり返しに見えることもしばしばで、作者の技量がかなり問われる難しい状況をも生みだした。しかしだからこそすぐれた物語は本当にすぐれていることが多いのである。

f:id:SengChang:20170414095211j:plain

アニメ自体が批評的な意義をもつことは昔から珍しくはなく、近年に至ってもなお、時代を先どりするような形ですぐれた洞察の見られる作品は多く生みだされている。『serial experiments lain』は、ゼロ年代以降のネット社会における問題を予示した重要な作品として位置づけられているし、本サイトでも少しだけとりあげた『カイバ』は、脳移植や記憶の移植、交換可能な身体、そして人工知能における存在論的主題をいち早くとりあげた秀作である。その後継作品として『ソードアート・オンライン』も忘れてはならないだろう。VR時代に向けて新たな身体論(仮想身体と現実身体の新しい関係論)が書かれることは不可避である。また『輪るピングドラム』がオウム真理教の事件をとりあげるなど、若い世代が社会問題を語ることのできる環境を整えたという意味で、これらの作品は大きな意味をもつと言ってよい。

 

●付記

f:id:SengChang:20170414095214p:plain

制作会社がその場しのぎの経済策といわんばかりに、次々と駄作をアニメ化する動きにはいい加減辟易としてきた。売れるものを出さなければいけない以上、金になる作品を映像化するという理屈はわかるが、作品制作のプライドはないのか、と言いたくもなる。消費者だけでなく製作者側のリテラシーもかなり問われる戦国時代がここ十年くらいのサブカルチャーの現状である気はする。

その一方、本当の良作も一年に数本はあるようで、仕事の一環として観なければならないと思いつつも、ほとんど追えていないのが現状である。いつまで経ってもサブカル批評を整えようとする人間が現れないこともあり、今後この分野はいろいろと難しい局面を迎えるのではないか、と私自身は思っている。作品が体系的に整理されないままであれば、過去の秀作はそのまま風化する一方だし、過去作品を踏み台としてそれをのりこえてゆくような主題の展開や、翻案による焼きなおしなどで、制作を豊かにすることも当然難しくなる。移り変わりの激しい分野ならではの、次々と代替物を消費してうしろをふり返らない姿勢は、こういった根本的な部分にまで大きな影響を及ぼす気がしてならないのである。