ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『水葬銀貨のイストリア』を読む 前夜(感想・レビュー)

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調べてみると「イストリア」とは、ギリシャ語のistoríaないしラテン語のhistoria(hは無音のh)のことのようで、フランス語のhistoireと同じように、これらの言葉には「物語」という意味がある。物語=歴史という観点から語られた物語(tale / story)が『水葬銀貨のイストリア』であり、このあたりも『紙の上の魔法使い』を彷彿とさせる物語への傾注が見てとれる。

ノベルゲームに文学の色をもちこんでくれるルクルの物語は読んでいて本当に楽しい。賭博と言えば、ドストエフスキーの『賭博者』を出すまでもなく――ほかに私が思いつく限りでもディケンズの『骨董屋』、トマス・ハーディの『帰郷』、プーシキンの『スペードの女王』などがある――文学の定番の主題であるし、それだけでなく『イストリア』では様々な文学的主題への目配せがあった。『紙まほ』に続いて本作も高く評価すべき傑作である。ブラボー。

 

●古典的悲劇

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現代において現実的な意味での“外部の力”というのはおそらく天災くらいのものなのではないか。宗教がかつてのような意味をもたなくなった現在では、絶対者(Deity)というものは存在しえず、たとえ絶対者のように見えても所詮はただの人間である。しかしそれが多様な物語の支流を生んだこともまた事実であろう。無論本作もそのひとつである。

抗うことのできない力でねじふせられる物語は、実は西欧の古典文学の定番でもある。古くは聖書の「ヨブ記」があり、英米文学三大悲劇やシェイクスピアの四大悲劇はもちろんのこと、P・B・シェリーの『鎖を解かれたプロメテウス』、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』アルベール・カミュの『カリギュラ』・・・・・・と枚挙にいとまがない。本作も『紙まほ』同様、西欧の文学形式にのっとっており、もはや偶然ではなく必然ではないのか、と問いただしたいほどである。さらにもうひとつ重要なのは、これらの古典作品は当然のごとく悲劇的性格をもった終わりを迎えるという点である。このことを知っていると、本作のコピーである「ハッピーエンドを約束しよう」という文言が、伝統形式を逆手にとったなにがしかの仕掛けとしてより魅力的に映るわけである。

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『イストリア』では不条理が悲劇とほぼ同一のものとして語られる。「獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす」と灯が述べたように、シーシュポスの神話――カミュ版の『シーシュポスの神話』でもよいのだが――を想起させる不条理な現実との衝突が幾度となく描出される。本来、不条理そのものは神や自然によるものとされ、人為的な不条理とは区別されるものであるが、カミュが『ペスト』のなかで疫病の蔓延になぞらえナチスを寓意的に表したように、人間による悪もときには抗いがたい絶対的な外部の力として捉えうる。

こうした災厄に左右される感情の物語を、本作は論理(logic)、すなわち理性の物語で反転させようと試みる。『紙まほ』でもおなじみの、西欧文化に根ざした「感情と理性」の論理モデルである。ここで卓抜だと感じたのは、英士のポーカーに対する所感である「自分が正しい選択をできているのなら、このゲームは、勝つようにできている」という言葉が、そのまま『水葬銀貨のイストリア』という物語そのものを語っているという点であった。ポーカーのゲームロジックを通してノベルゲームの特質が語られるという、まさに換喩表現の手本とも言うべきつくりになっているあたり、また仕掛けてきたな、と思ってにやりとしてしまったところ。感情に重きを置く古典的悲劇の物語を、現代的な理性の物語によって覆すという、慣習的な手続きながらも、物語文化に深く根ざしたこれは粋な試みである。

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さらにこうした手続きは、最後にやってくる英士と紅葉のポーカー対決に収斂される。ポーカーをプレイしながら英士は、紅葉を観察し、語りかけ、感情をゆさぶり、彼女の生の感情をひきずりだすことに成功する。過去に紅葉から求められてきたような人間としての感情の起伏を、同じように英士は紅葉に求めたのである――それはすなわち、これまで物語の外から物語を語るだけであった紅葉を物語の内にひきずりこみ、ひとりの“作中人物”として生きることを彼女に求めたのである。これは物語全篇を通しての、傍観者ではなく当事者として物語(istoría / historia)――自身の過去やいまここに展開する自身の“現在”という歴史(istoría / historia)――と向きあうという実践に根ざした答えであった。

『紙まほ』において汀が夜子に求めたように、客観的に外から物語を語るのではなく、木村敏の言葉を借りるならば、「いまここ」を生きながら主観的に生を生きる、そんな経験的な物語を語ることこそ、紅葉の孤独な生を救う手立てとして英士が提示した答えなのである。幼いころは恐怖に怯えて密告できなかったゆるぎが身を挺して玖々里を守ろうと変化したり、他者に守られてばかりいた小夜が紫子のナイフに立ち向かったりする態度も、当事者として自己や他者と積極的に向きあう姿勢を示したものであった。

 

●人魚姫の民間伝承(folklore):正義と悪の寓話(fable

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悪を心で思うことと悪を為す(語る)ことはちがう、というのが、『紙まほ』の夜子/クリソベリルにまつわる挿話を通じて語られた主題であった。本作ではそこから一歩先に踏みこんで、実際に起こってしまった悪が、本当に悪なのかどうか、正当化できるものもあるのではないか、との議論が展開された。当然ここには悪と表裏一体である正義の正当性の問題も関わってくる。本作の人魚姫にまつわる民話は、アンデルセンの「人魚姫」ではなく、どちらかといえば小川未明の『赤い蝋燭と人魚』と同じ性質をもった寓話であった*。人間の利己的なふるまいに蝕まれる不思議な力をもった未明版の人魚の運命は、『イストリア』における人魚姫を確かに強く想起させる。自己犠牲に身をやつす人魚姫の存在は、偽善についてだけでなく、隙のない正しさが存在しえないという事実を浮彫りにするものでもあった。*未明の『赤い蝋燭と人魚』のあらましについては「付記」にて詳しく記しておいた。

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誰かの命を削ってまで自分や他者の命を生かしたいとは思わない、という英士の言明は、『生命のスペア』の恵璃を思い起こさせるものであった。しかしながら、たとえば小夜は誰かの命を削った涙によって救われたのであり、さらには英士自身も人魚姫の涙に何度も命を救われてきたという事情もあり、英士は自分自身を加害者として認識している。ミルトンの『失楽園』のように、本作もまた、正しく見えるものに潜む偽善を暴きだす物語であると言ってよい。こうした正義についての考えは、人物たちの自己同一性と緊密に結びついており、正義が偽善にすぎないことを思い知ることで、彼らの(灯や祈吏、ゆるぎなどの)自己同一性はことごとく崩壊してしまうのである。そしてそこからふたたびどう自己をうち立てるのかが本作の中心的な主題のひとつでもある。紅葉に象徴されるように、正義と悪は表裏一体、ないし同一の価値を軸にしてうち立てられるものだと知り、誠実に生きるためにはいったいどうすればよいのかを彼らは問いなおさざるをえなくなってしまう。

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そこでたとえば、紫子のような当を得た問題提起が出てくるのである。すなわち、正しいかどうかは重要ではなく、自分にとって都合がよいかどうかがすべてなのだと。みな自分に都合のよいときにだけ正しさをふりかざすなかで、はじめから自分にとっての利益だけを考えて行動を起こし、それがときに世の中の正しさと折りあうこともあれば、折りあわないこともある。ある意味でそれは純粋で正直な生き方である。少なくとも、自分が安全な場所にいるときにしか正しさをふりかざせないような人間が、彼女や紅葉の論理をうち崩すことができるはずもなく、正義や悪、公正や偽善の複雑な連関をここに見てとることができるだろう。

その点を的確に突くような形で、紅葉による“操作された正義”が幾度も英士を裏切るのである。彼の努力はすべて紅葉が操作した運命によってことごとくうち砕かれてしまう。ここでもやはり『紙まほ』や『運命予報』で提示された、本当の主体性とはなにか、という問題提起がなされており、自分の意思だと思っていたものが体よく誘導されたものにすぎず、その偽善をあばく策が紅葉によって弄される。

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しかしながら、先にも引用したように、「自分が正しい選択をできているのなら、このゲームは、勝つ」ようにできており、「運の要素が真実を覆い隠してしまっている」のがポーカー、そして生きることなのだと英士は気がついていた。それこそが本作において、正義と悪の無限問答を上回る主張として提示されたものである。だからこそ彼の適切な選択の積み重ねは、紅葉や久末家がもたらす作為的な運命を凌駕し、相応の未来に彼をたどりつかせてくれたのであった。奇蹟とは主体的な選択のうえにこそはじめてもたらされるものであるが、常に最善と思う選択をしていれば奇蹟が起きる、ということではなく、そうした選択を続けていればそれ相応の未来を摑むことができる、という思いで、この物語の結末を捉えておくべきなのであろう。

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人魚姫の寓話はこのように、正しさの偽善、悪の正当性をあぶりだすものであったが、当然この問答に明白な答えは出ない。「誰かを救うために、涙は必要ない。そのことを、心に刻みなさい」と紅葉が言うのは、ひとはもっとちがった形で――他者に依存せずして――救われるべきだという主張でもある。その一方で、誰かのために泣くことの美しさが、玖々里や紫乃の挿話、あるいは紫子と英士の涙の場面によって語りだされる。また、涙を流せるかどうかでひとの価値は決まらない、と英士は最後に小夜に告げ、自己犠牲は本当に尊いものなのか、自分をないがしろにしている点は咎められるべきではないのか、と人魚姫に対し否定的な問いをもちだしている。あくまで答えの出ない問いに対し多角的な視座でもって向きあった物語が本作『イストリア』なのだと言えよう。

答えの出ない両義的な価値について考え続けることこそ、本作が全篇にわたって語り続けた、物語の当事者として生きる姿勢なのである。いくつかの選択肢のうち、どれもが正しく、またどれもが間違っているとして、覚悟をもってそのうちのひとつを選ぶ果断な姿勢こそが、本当の主体性と言うべきものなのであろう。多様な立場から公平に価値を見据える語り部はとてもよい。紫子のために紅葉が壮大な噓の物語を仕掛けたように、噓のおかげで生きながらえる命も確かにあり、覚悟をもってその道を選ぶのであれば、そこに真偽の議論をもちこむ必要はなくなるというわけである。

 

●前夜の付記

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『罪ノ光ランデヴー』でも『赤い蝋燭と人魚』がとりあげられており、他作品のネタを使いまわしているのか?などと下世話な勘繰りをしたくもなるが、翻案や焼きなおしも文学においては定番の様式美であり、これらが作品の主題に深度を与えることは多い。中途半端にネタを盗むことしかできない作家は所詮たいしたものを書けないのだから、そんなものは目の肥えた読者にすぐ見抜かれてしまうのが落ちである。だからネタの使いまわし自体はたいした問題ではない。というよりもっとやれ。

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安全な場所にいるときにだけ、あるいは自分に益があるときにだけ、正しさをふりかざす偽善については、『SWANSONG』でこれでもかというほど丁寧に語りだされていた。自分の信じているものが他者を虐げてはじめて成りたちうることに自覚的になれという紫子の言葉はなかなかに慧眼であったと言える。『SWANSONG』とちがってよかったのは、正しさのあげあしをとり脱構築をくり返すばかりではなく、正しさについての議論が存在しえない“主体性”を全面にうちだしてきたところであろう。また、精査吟味したうえでの選択の連続が、ひとりの異性との恋愛で終わるおきまりのTRUE ENDに結びついていないところも、個人的にはうれしかった。こうしたオープンエンディングや恋愛関係だけでない男女の関係を描く物語には非常に可能性を感じる。

それにしても、物語ないし思考のまとめをポーカーでしてくるところは相変わらずの手練である。作家が懸命に勉強した形而上学的な遊びの発表会でしかないあの作品やあの作品とは一線を画した、至極人間的な物語であったと思う。後夜では精神病理学的観点から本作をさらにおいしく味わってみたいと思う。

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*小川未明『赤い蝋燭と人魚』あらまし

拾って育ててくれた老夫婦のため、人魚は蝋燭に美しい絵を描いて夫婦の商売にその身を尽くす。やがて、人魚が筆を入れた蝋燭を山の上のお宮に捧げると、どんな嵐の日にも船が転覆したり溺れたりする災難が起こらない、という巷説が広まり、老夫婦の許には多くのひとが蝋燭を求めてやってくるようになった。そして遠くの国から訪れた香具師にそそのかされた老夫婦は、お金のために人魚を香具師に売りとばしてしまう。その晩、大嵐が起こって数多くの船が沈んだ。風評被害も手伝って、そののち老夫婦の蝋燭を買う者はいなくなり、夫婦とその町はついに廃れていくという悲話である。