ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

 『水葬銀貨のイストリア』を読む 後夜(感想・レビュー)

f:id:SengChang:20170503210719p:plain

いつみや灯、あるいはC・Aとしての英士も然り、別の人間としてもう一度親しい人間の日常に戻ってくるというのは『紙まほ』でもあった主題。不連続の自己を連続した自己として捉え、その意義を見つけるためにもう一度他者と関係するさまは、月社妃がこぼした、それでもまだここにいるのにはなにか意味があるのだろう、という言葉とも響きあう。本作でもまた自己同一性の問題が様々な角度から照らしだされていたと言える。

 

●役割同一性の主題

f:id:SengChang:20170503210602p:plain

事件の影響により英士や小夜たちは、疑似家族という偽物の価値に自己の寄りどころを求める一方、ゆがんだ価値による自己存立の物語にゆき詰まりを感じはじめる。ここには日本人特有の役割同一性の問題が見え隠れする――役割同一性というのはすなわち「私にとって特定の立場にいる他者から、私がかくかくしかじかの役割行動をはたすことを期待され、私がその期待にこたえて遂行する役割行動に応じて当の他者から認知されることによって、はじめて成立するような自己のありかた」のことである(木村敏『時間と自己』「鬱病者の時間」)。

「小夜を救う義務=C・Aという役割」のなかでのみ自己存立の意味を見出す英士は、まさにキルケゴールが言うような、自己という関係に関係する主体である。すでに絶望の結末が決まっている生を生きる意味を、他者を救う、罪を償うという目的のために使い、しかしそのためにC・Aという別の自分を身にまとう必要に迫られ、自己分裂をひき起こす。しかもそのC・Aという自己同一性も、ディーラーである小夜のイカサマのおかげで保たれているという、かりそめのものにすぎなかった。その事実がのちに明かされ、犠牲を払って懸命にうち立ててきた自己が、足元から崩れ去ってしまうところはそらおそろしい。唯一の矜持であったポーカーすらも偽物であったという結末は、英士の本質を内側から破壊するには十分であった。だからこそBAD ENDでなにもかも失った英士は、紅葉から役割を、仕事をもらえなければ自分が生きていけないことに気がついたのである。*実際には英士は高い技術をもったプレイヤーであり、そこに小夜が手を加えることで、圧倒的な力をもつに至ったというのが真実。すべてが偽物の強さであったわけではない。我を忘れた英士はそのことにも気がつかなかった(BAD END)。

f:id:SengChang:20170503210609p:plain

f:id:SengChang:20170503212400p:plain

英士はC・Aという人格に完全にとり憑かれており、劇薬を使って元の自分の弱い心を覆い隠し、C・Aという人格を無理やりに成立させている。ドラッグや賭博のスリルによって自己を確立させる、あるいは自己に“生きている”心地を与えるというのは、“The cold schizoid person may ‘go for kicks’, court extreme thrills, push himself into extreme risks in order to ‘scare some life into himself’, as one patient put it.”とR・D・レインも『引き裂かれた自己』において指摘していた(Divided Self. “9. Psychotic development”)。文学において賭博がなじみ深い話題となったのは、それがひとえに生きる実感を与えるものであったからにほかならない。

小夜もまた、英士を愛することでしか自己を保てなくなり、ゆがんだ関係に自らの自己同一性を見出したひとりであった。英士を兄と思って接しなければならないという“すりこみ(imprinting)”による、誘拐事件によってなされた人工的な人格形成。R・D・レインのfalse-self systemにおいて、真の自己が傷つかないよう偽の自己をつくりだすあのプロセスを、外部の力によって小夜は作為的に追わされたとも言えよう。前掲書においてレインが紹介した、母親の望む自己(偽の自己)と本来の自己(真の自己)を併存させて自己存立を図った患者デイヴィッドの症例と同じく、小夜もまた偽の自己によって真の自己を防衛する手段をとらざるをえなかったことがわかる。

f:id:SengChang:20170503210606p:plain

しかしのちに小夜は、英士の存在なしでも生きられるほどの強い心を、人魚姫の涙の治療によってとり戻した。そこで彼女は、英士が自分の許を去ることがないよう、自分以外のひとと幸せになる未来を選ばないよう、彼を自分に縛りつけるため依存関係を保とうとする。小夜は今度は自分自身の意志で偽の自己を演じはじめたのである。一方で、のちに英士自身が語ったように、その関係に依存していたのは英士も同じなのであった。誘拐事件によって役割依存をすりこまれた彼らは「独特の仕方で秩序の中に“はまり込んで”しまっていて、そこから“抜け出せない”という、特別な形の几帳面さ」(原典では括弧内は傍点)に陥っており*、ドイツの精神病理学者テレンバッハが言うところの「秩序愛好性」をもつに至ったと考えられる(木村敏、前掲書、同章)。他者のため、という言葉を執拗にくり返す態度も、「他人のために尽くす」という秩序愛好性をもった人間独自の傾向である。*ここで言う几帳面さについては、たとえば英士が小夜に水葬銀貨を食べさせるという習慣や、カジノに通いつめる英士の行動などを想起してもらえばよい。

他人に生きる理由を求めるな、と紅葉が言ったように、この物語は自らの主体性を他者との関係において見つめなおす物語であった。英士にしても小夜にしても、「自己のこれまでの役割同一性の継続を認知してくれるような人物しか期待しない」状態に陥っており(木村敏、前掲書、同章)、そこから脱却する物語がTRUEルートでは語られた。

※祈吏の性別の問題、さらには、小夜に一番近い存在という自己同一性の問題もまた興味深いものであった。祈吏の自己同一性は、征士が小夜にすりこんだ人工的な自己同一性によって、脆くも崩れ去ってしまう。祈吏の場合それは英士が男であったことにより二重の重みをもつに至った。すなわち、自分が女だとはじめて知った祈吏は、小夜を異性として愛することができないと気づいただけでなく、彼女の一番の存在であるという誇りをも、英士に奪われてしまったのである。二番手に落ちる苦しみを、主人公とヒロインの関係においてではなく、ヒロインと第三者の関係において描くというのは、ノベルゲームにおいてはなかなかに珍しい。

 

●不連続の連続

f:id:SengChang:20170503210721p:plain

役割同一化からの脱却自体はわりあいあっさりとしたものであった。涙の治療により、自身の凄惨な過去に対してどこか他人事のような気持ちしか感じられなくなった小夜は、すべての真実が明るみに出たあとでも、なんの苦もなくそれを受けとめられてしまう。彼女に限らず英士もまた、最後まで過去の自分のアクチュアリティをとり戻せないままである。ゆえにここでは、過去の自己と断絶した現在の自己の在り方を、未来と手を結ぶ形でどう捉えるのかが問題化される。『紙まほ』では魔法の本によってもたらされた自己の断絶化が、本作では人魚姫の涙の治療によってもたらされたというわけである。

夕桜と英士の勝負ののち真実を聞いた小夜は、いわゆる一意的な価値の崩壊に襲われる。小夜にはポーカーをしている英士を好きになったという背景があるが、実は自分が好きになったポーカーをしている英士こそが憎むべきC・Aだったのであり、二律背反が無意識のうちに成立していた事実を知るのである。好意と憎悪が同一化してしまう矛盾に陥った小夜は、もはや自分が役割同一性をよすがに自己を保持できないことに気づく。そこで彼女は、事件後に育ててきた英士への信頼、さらには役割依存に陥るほど英士を信頼していた過去の自分の想いを、自らの意志によって結びつける決断をするのである。小夜は英士といままで通りの心の関係を続けるために妹としての役割を捨てる決断を下した。

有機体にとっての「現実」とは、そこに生きている有機体がそれに対してどのような態度をとるかの「関数」なのであって、それは換言すればそのような「現実」を主体的に作りだす「機能」なのである。(ヴァイツゼッカー『病因論研究』木村敏「解説」)

f:id:SengChang:20170503210725p:plain

f:id:SengChang:20170503212356p:plain

事件後に育んだ英士との現在を、兄妹関係に依存した役割同一化としてではなく、純粋な信頼関係として小夜は再定義したのである。過去によって現在が再定義されるのではなく、未来に開かれた現在から過去を再定義し、不連続の自己を連続したものとして捉えなおす実践が、小夜の役割同一性からの脱却を可能なものとした。まさに現実を主体的につくりだすこれはアクチュアルな生の営みである。

なにを捨て、なにを守るか、その選択がいまをつくる。自分の選択に責任をもつことはいまあるものを大切にして懸命に生きることだ、という主張が、本作において示された“答え”のひとつであった。だからこそ最後まで小夜が本当の妹である事実を英士は彼女に明かすことがない。偽善を孕むゆがんだ価値を自己存立の糧とし、様々な仮面を使い分け、そのどれもを自分自身として受けとめる強さをもって生きること。「真実を暗がりに閉じ込めて、偽装の幸せを噛みしめ」るのが、親しい者を犠牲にしてでも守りたいひとを守った人間が負うべき責任なのである。このように『イストリア』では、不連続の自己をすべてひとつの自己として受けとめるという、『紙まほ』の主題が敷衍される形でふたたび提示されていた。見事なものである。

sengchang.hatenadiary.com

 

●後夜の付記

f:id:SengChang:20170503210613p:plain

暴力の記述が正直ここまでとは思っていなかったから読んでいてかなりきつかった。プレイするひとはそのあたり覚悟して臨んでほしい。肉体的苦痛の描写は精神的苦痛のそれをいつだって上回る、というのは私個人の所感だが、ここまでやらなくても言葉の妙でもっとやわらかく――そして最大限の効果をもって――表現できるはずだ、とひと言文句をつけておく。不幸話の積み重ねも不自然なほどくどく疲弊するほどであったが、これはstoryの問題ではなくplotの問題だろう。このあたりについては諸方でも指摘があるようなのでほかのレビューに譲る。

なにはともあれ、脇役も含めてひとりも余すことなくすべての人物の正負を拾って答えを出す語りは確かに見事であった。いつみやゆるぎの後ろめたさの解決、戦えなかった夕桜の後悔、あるいは宗名の過去までもが、最後まで丁寧に語りだされている。個人的にTRUEルートのゆるぎは恰好よくてとても好き。そして玖々里について語るべきことがなにも思いつかなかったのは残念でならない。最後まで英士とともに在ったのが玖々里であるというENDには思わずうんうんうなずいてしまったけれど、みなさんはどうだろうか。

f:id:SengChang:20170427004800p:plain

物語は常に同時代の寓話であるべきだと私は思うし、涙を忘れた世界、というのは、いまの時代と手を結ぶなかなかに大切なモチーフだと感じる。「誰かを救うために、涙は必要ない。そのことを、心に刻みなさい」という紅葉の主張は私たちにとって他人ごとではない。過去をどう受けとめるかは私たちの永遠の課題であり、現在から過去を捉えなおして涙を流せるようになった英士の、紫子との最後の対話には感じいるものがある。ここから読者が感じとるlessonは様々であろうが、私自身は、現実では泣けないのにフィクションで泣ける病態に陥った自分の境涯を省みるに、善悪や真偽などを気にせず他者と関わりをもたなければ、不連続の自己を連続したものとして綜合することはできないと感じた。

長々と講評してきたが、過去作品の主題にみがきをかけたうえで、さらに複眼的な視座から光を当てなおした、よい作品であったと思う。これからも力強い作品をつくり続けてくれるようウグイスカグラには大いに期待したい。

⇒『水葬銀貨のイストリア』を読む 前夜(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

f:id:SengChang:20170503210730p:plain