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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『死体泥棒』を読む

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小説として出版されている瀬戸口(唐辺)作品のうちで最もよい作品だと思う。彼の物語は総じて同じ主題を追求したものなのだと改めて感じる。個人的には、小手先だけでいろんな主題を書き分ける作家が大嫌いなので、血を流しながら同じ主題を何度も何度も書く作家しか信用していない。

本作では、むだの価値という『SWANSONG』でも提示された現代的な主題と、そこにこそ物事の本質が宿るという塩津の主張とが問題となる。死体を盗むという、はじめからすでに終わりの見えた無為な計画を、なぜ彼は遂行する必要があったのだろうか。

 

●画一化された幸福への反論

「平凡な幸福」という幻想が本作でも全面に出されており、たとえば大前はこれを「画一化された幸福なんて、あんなものは要するに馬鹿が間違いを犯さないための判り易い努力目標じゃないか」と蔑視して切り捨てるが、一方の塩津はこれを完全には否定できない。かつて幸とともにそれを決死に求めたからである。物語は平凡な幸福がふたりの手からすべり落ちたところから――幸が病気で亡くなり、塩津が彼女の死体を葬儀場から盗みだすところからはじまる。

生きている間は人のために働いて、死んでからも惜しげもなく全部を与えて、そのくせ自分のささやかな夢は一つも叶わないまま死んでしまった。・・・・・・本人は死ぬその時に、自分の人生がまるきり報いのないものだったと気がついたのだろうか? 結局、全部駄目だったよ。一緒にクリスマスを過ごせるのは、もう使う部分のない切り刻まれた残り滓だけだよ。(四章)

生前は母のために尽くし、死後は臓器提供者として他人のために尽くし、自分の希望はなにひとつ叶わず、おまけにあらゆる臓器をもっていかれた空の身体だけが残された。塩津はそんな幸の生涯を思ってやり場のない怒りを覚え、皮肉にもそれが幸を失ってもなお生きなければならない彼の活力となった。幸の父「先生」が亡くなった際に涙をこぼす彼女を見て、これだけ悲しんでくれるのならば自分は先生の死を悲しまなくていいのだろう、と塩津は述べているが、その言葉はそのまま彼自身にも当てはまる。幸の死に憤りを感じ、彼女のやりきれない人生を深く顧みる塩津の想いは、幸の母を深い悲しみから救うことになる。

塩津の怒りの源はしかしそれだけではなかった。幸の人生を顧みるとき、そこには先の「平凡な幸福」の影が見え隠れする。彼女の人生が“無意味”なのは、世間一般に有意味なものとされる「平凡な幸福」と比べてしまうからなのである。どんなに幸の生を価値のあるものとして意味づけたとしても、世間の正しさから見れば、それは単なる敗残者の不幸な人生にすぎない。

現在の父親と結婚して平凡な幸福に収まった自分の母親を見て、昔のめちゃくちゃな母親のほうが本当らしく感じる、と塩津は述懐する。過去をきれいに清算して生まれ変わったように生きるその神経が彼には受けいれがたい。平凡な幸福がなにかを隠し、犠牲にしたうえに成りたつ現実がここでは暗に示されており、塩津が手に入れかけた幸とのささやかな幸福も、「明るみにできない部分に嘘をついて」成りたっていたのではないか、と彼は訝しんだ。だからこそ塩津は、「最後に残った使い道のない部分にこそ、僕の好きな彼女が詰まってるような気がするんだよ」と言い、むだなものを追い求めることで、むだと見做されてしまう幸の人生に意味を見出そうとした。

生きている時だって、僕たちはお互い何も持っていなかったから、一番大事なものを分かち合えたんだ。あの時より更に失った今なら、もっと大事なものに触れることが出来るような気もする。きっと、何もない方が良いんだよ。(四章)

幸福にはいつまで経っても手が届かず、すべてはむだかもしれないが、それでも生きる必要がある。『CARNIVAL』『SWANSONG』でもくり返された主題はここにもこだまし、それが唯一、幸の生を意味あるものに変えてくれる鍵なのだと、塩津は最初から気づいていた*。彼女の生を否定するような幸福を塩津は強く拒絶する。だからこそ彼は世の中の人間がなんの意味も見出さない死体にこそ、彼らの求めた大事ななにかがあるとこだわり続けたのである。

「そんな百パーセントの幸福なんか、どこまで行ったって見つかる訳ないですよ。幸せになろうとする行為が、そのまま人生を台無しにするだなんて、パラドックスだと思いませんか?」と主張する塩津は、『CARNIVAL』の学や理紗のように、幸福には手が届かないという現実に自覚的である。あるかどうかもわからない、具体的でも実際的でもない画一化された幸福ではなく、中身はからっぽにすぎなくても、手でふれることのできる現実を塩津は選ぼうとしたにすぎない。死んだ恋人の死体を盗むという塩津の行為は、無為な行いでありながらも、生へのひたむきな力強さを感じさせるものであった。

*ただし『CARNIVAL』や『SWANSONG』と同様、それが本当に有意味になるかどうかはまた別問題である。学や理紗、柚香はすでに未来をあきらめてしまっており、それに対し塩津や司は未来に希望を抱き、無意味が有意味に変わる瞬間をあきらめていない。「いま」という現在進行中の過程から見るか、「未来」というまだ見ぬ結果から見るかによって、この問題はその意義が大きく異なる。

 

●付記

一年前に読み終えたときなにをどう書けばよいのかまるでわからず放置した。一年経って、というよりも一年かけて、ようやく糸口を摑んだのでおもむろに筆をとった。いままでもよくあったので別段珍しくもないのだが、得てして特別な思いを抱く作品に多いことであり、本作も例にもれずそうだなあと思った次第である。

立ち去りかけた塩津が、幸の前にふたたび戻り、バルーンアートをつくって彼女に手渡す場面がとても好きだ。読んでいて心があたたかくなる美しい場面だと思う。なにげない場面に繊細な豊かさを織りこむ描写は小説の命である。いまやそれができる作家は本当に少ないので、瀬戸口は貴重な作家のひとりだと思う。本作はなんとプレミアがついているらしいので、図書館などでぜひ一度手にとってもらいたい。