ワザリング・ハイツ -annex-

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V・v・ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』を読む

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ヴァイツゼッカーを日本に紹介した木村敏の功績は非常に大きい。神経科医であったヴァイツゼッカーは、フロイト精神分析学を出発点として独自の思索を展開し、主体についての重要な考えを提示した。本書では生物学的観点に重きを置きながらも、精神病理学的に重大な主題について、終章の「ゲシュタルトクライス」でまとめあげている。

主体は常に、環境と新たに関係を結びなおして形作られるものであり、その連続体を自己として捉えるというのが、『ゲシュタルトクライス』におけるヴァイツゼッカーの主な主張である。主体と環境のこのような関係は「相即(Kohärenz)」と呼ばれ、その際に主体が一度崩れ去る機会は「危機/転機」(Krise)と呼ばれる*。「転機と呼ばれるこの危機的な瞬間に、主体はその連続性と同一性をいったん放棄します。そこで再び新しい相即を樹立しなおすために、有機体の内部になんらかの機能の組み替えが生じないかぎり、主体は消滅せざるをえません」(木村敏『からだ・こころ・生命』Ⅰ-4)。ヴァイツゼッカーの言う「主体」とは、日本語の「自己」とほぼ同じ意味に解することができ、環境によってその都度新たに自己が獲得されるという、不連続の連続として自己を見ている。*この「危機」はエリクソンの言う心理社会的危機とも大いに響きあうところがある。

環境によって絶えず主体を新たに獲得しようとする不断の運動(=生)こそが「主体性」である、と見做したヴァイツゼッカーの洞察は非常に興味深い。すなわちヴァイツゼッカーは、生物が本能的に環境へ適応しようとする運動全体を指してそれを「主体性」と呼んだのである。

主体とは確実な所有物ではなく、それを所有するためにはそれを絶えず獲得しつづけなくてはならないものである。・・・・・・われわれの環界に属しているいろいろな対象や出来事が知覚や動作において統一性を構成しているのがひたすら機能変動によるものであるのと同様に、主体の統一性もまた、非恒常性と転機とを乗越えて不断に繰返される回復においてはじめて構成される。(ヴァイツゼッカーゲシュタルトクライス』「ゲシュタルトクライス」)

以上のようなヴァイツゼッカーの哲学を、わかりやすくまとめ直した木村敏の一節を次に引用しておく。

有機体と環境との物理的な関係は絶え間なく変化しているから、相即はそのつど新たに作り直す必要がある。有機体が相即の中断という「危機/転機」(Krise)をそのつど乗り越えて、環境世界との関係を維持しているかぎり、有機体は「主体」(Subjekt)として環境世界と対峙して生き続けることができる。(木村敏『関係としての自己』第Ⅻ章)

このように主体=自己は常に環境との「からみあい(Verschränkung)」をやめることがない。自己とは常に変化する関係そのものであり、自己を省みる際には、いきいきと変化し流動する関係としてその全体を捉えなければならない。自己は静止した対象として捉えられるものではなく、環境に応じて運動する流動体なのである。そして当然のことながら、自己と環境との関係は、互いに働きかけるような関係として捉えるべきものである。

「ここにいま」において、自我と環境とは単に鏡像的反映としてではなく相補としても関係しあう。物なくして鏡像なく、鏡像なくして映されたものはない。(ヴァイツゼッカー、同掲書、同章)

これは西田幾多郎が「主体が環境を、環境が主体を限定し、作られたものから作るものへという歴史的進展の世界においては、単に与えられたというものはない、与えられたものは作られたものである」(西田幾多郎「行為的直観」)と述べたのと同じことである。自己と環境とは互いを構築しあうとともに、相互に働きかけ、常に関係を結びなおしていると考えうる。こうした運動の連鎖、不連続の連続全体を指して、ヴァイツゼッカーはこれを「ゲシュタルトクライス」と呼んだ。

その意味で、木村がヴァイツゼッカーの哲学を臨床心理において重要視した理由がよくわかる。絶えず変化する環境要因に応じた自己の変化の過程で、主体が自己存立を懸けて心身を変形させた結果が、いわゆる精神病理なのであり、心身に現れた病態を因果関係によって端的に捉えるべきではないのである。

 

●付記

関係妄想ではたとえば、両親の子供ではないと思いこむことによって、子供が両親との間に生じた問題を消滅させて問題の解決を図ろうとするが、その妄想を“真実”として思いこまなければ自己の保持が危ぶまれるからこそ、生みだされた自己適応の症状なのである。あくまで両親との変化する関係に応じる形で自己も現実との関係を変化させただけにすぎない。

環境適応のための自己変化が、いわゆる常識にかなっていれば健常と見做され――逢うひとによってちがった自分を演じる社会的自己などはその典型例である――そうでなければ異常と見做される。しかしながら心を病むひとに限らず、自己の新たな獲得は誰もが常日頃から行っていることであり、それはあくまで環境に適応するための“自己の生存を懸けた”変化にすぎない。そうした主体性を「異常」だと言うことが果たして本当にできるのか。それはいったい誰の定めた常識から見たものなのか。

「自己」を主題にした海外文献のうちでは、R. D. LaingのDivided Selfブランケンブルクの『自明性の喪失』に並んで、最も重要な書物のひとつとなったのがこのヴァイツゼッカーの『ゲシュタルトクライス』である。文学でも長く描かれ、ノベルゲームでも常に問題とされる断絶した自己の主題は、ヴァイツゼッカーの哲学でもって非常に見通しがよくなるものと私には思われた。今後も長く私自身の礎石であり続けるであろう特別な一冊である。