ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『神樹の館』を読む(感想・レビュー)

f:id:SengChang:20170604222857p:plain

さすがにここまでは予想していなかった、というほどの仕上がり。これはすごい。日本古来の“家”の慣習と歴史=物語に対する深い洞察だけでなく、異類婚姻譚、日本の神、明治維新から大正にかけての和洋折衷文化、言葉遊びといった日本の伝統を余すことなく盛りこんだ“お噺”である。ちょっと手の込んだ伝奇もの、くらいにしか思っていないひとがいるのなら、いますぐプレイしてみるべき。私の記事では理解のために和辻哲郎の言を借りたが、日本の神話や自然信仰(または森という「場所」の観念)について、あるいは祭事についての文献など――フレイザーの『金枝篇』とか――を頼れば、別様の趣が立ちあがってくるように思われた。

 

●歴史的館の七変化

f:id:SengChang:20170604222854j:plain

館とその神秘へ惹かれるにつれて、次第に身体がモノ化し、やがては館の備品のひとつ「ヒトガタ(人形)」となってしまう人々。そのようにして長きにわたり、館は自らの歴史を屋内に閉じこめて集積し、存続してきた事実がのちに語られる。その一方で、ヒトガタとなるのはあくまで当人がそう望んだからであり、本当に望むのならば、ヒトガタとはならずに館を出ることも可能なのだとメイドの紫織は語った。すなわち、自ら望んだ社会的自己の獲得が、全体性の一部を成す思想に端を発するという、部分と全体の主題がここに提示されるのである。

屋敷を彷徨するうち秋成は様々な変妙怪奇を経験するが、それは館自体がこれまでその身に刻んできた歴史そのものだからであり、それらを変化(へんげ)として秋成の眼に見せてきたということが明らかになる。建物自体が歴史を記録する“書物”のような役割をもち、その果てなき歴史の集積を、主人の部屋に通じるとされる無限回廊が象徴する。

f:id:SengChang:20170604222903p:plain

f:id:SengChang:20170604222858p:plain

さらには記録そのものでありながらも、館に身をあずけた者たちの“家”としての役割も担うかのように、主人や使用人、子供といった諸々の役割を館によってあてがわれた人間が館には住んでいる。これはいわゆる物語の「舞台」を暗に示す物語と演者の関係に等しい。歴史を記述し記録する書物の表象と、物語と作中人物の関係の表象という、二重の層をもつ神樹の館は、秋成が館の女たちと成した(個別ルートの)物語の集積をも孕み、本ルートの秋成をその記憶で幻惑する――つまりは館が包む歴史はもはや作中人物の歴史に限らず、読者の読書体験(プレイ体験)にまでおよび、本作の根幹にある“夢と現の歴史”が、読者をも含む物語を指すことが示唆される。

このような驚くほど「閉じたお伽噺」から抜けだす過程が秋成と竜胆の物語を中心に構成されている。やや手の込んだ複相構造は確かに眼をみはるものがある。しかし本当に驚いたのは、こうした物語構造よりも、日本古来の“家”の慣習を物語の主題と響かせた手管のほうである。次の節にて詳しく見てゆく。

 

●「家=神」という表象

f:id:SengChang:20170604222901p:plain

日本固有の特質として“家”が歴史の集積を象徴する神格に位置してきたことは言を俟たないであろう。

最も日常的な現象として、日本人は「家」を「うち」として把捉している。家の外の世間が「そと」である。そうしてその「うち」においては“個人の区別は消滅する”。妻にとって夫は「うち」「うちの人」「宅」であり、夫にとって妻は「家内」である。家族もまた「うちの者」であって、外の者との区別は顕著であるが内部の区別は無視せられる。すなわち「うち」としてはまさに「距てなき間柄」としての家族の全体性が把捉せられ、それが「そと」なる世間と距てられるのである。(和辻哲郎『風土』第三章)*括弧内は原点では傍点

日本家屋の間取りが、錠前がない引戸だけの“シームレスに”繫がった部屋で構成されたものであることは、しばしば日本固有の風習として指摘されるものである。それは、家族の構成員それぞれを区別しない、全体の調和を重んじる日本の伝統的考えに根差した特徴なのであった*。ゆえに家のなかに住まう家族は精神共同体として、家系の全体性に帰せられるものであり、そうした家系の歴史の集積が、やがては「祖先」として神格を獲得していったという背景がある。*こうした精神共同体としての家の特徴が、そのまま日本の国の在り方を映しだしたものであると和辻哲郎も指摘しているが、本記事の主眼ではないためここでは踏みこまないでおく。

人間の全体性はまず神として把捉せられた。しかしその神は歴史的なる「家」の全体性としての「祖先神」にほかならなかった。(和辻哲郎『風土』第三章)

f:id:SengChang:20170604222902p:plain

f:id:SengChang:20170604222904p:plain

血筋に象徴される一貫した精神性を分かつ者として、日本語では、家の住人たちは同じ代名詞「うち」で表現されうる。そして祖先からの歴史を孕んだ連続する血統を「家」として全体化し、家=うち(内)として、それを個々の精神に根差す本質的なものと捉えてきた。本作において物語が徹底して館の“うち”で展開されるのも、「部屋には締まりをつけないにしても外に対しては必ず“戸締まり”をつけ」、「「家」はそとに対して明白に区別せられる」からである(和辻哲郎『風土』第三章 *括弧内は原点では傍点)。徹底して外と隔絶される日本の“うち”の理念は、本作において、ひたすらに内側へたたみ込まれた歴史の集積である那越邸=神樹の館の物語によって、見事に語りだされているのだ。

だからこそ秋成たちは「家」という神聖から外へ出ることができず、なおかつ館の一部として――つまりは同じ歴史性=家を分かつ「うち」として――「家」の全体性のうちに組みこまれてゆく。そして無限回廊を通じて内に内に入りこんでゆく秋成は、竜胆の宿った神樹の枝葉に象徴された、館の歴史の枝葉をたどっていることに気づくとともに、すべてが「うち」として同じ代名詞で表しうるその想いの淵源が、神樹の大木にあるという事実をついに突きとめるのであった。

f:id:SengChang:20170604222905p:plain

f:id:SengChang:20170604222856j:plain

すべての理を紐解いたのち、「今の世に、私達のようなモノが住まう場所はまだ残っていて?」と竜胆は秋成に問う。ことさらに館の内で物事を完結させていたのは、館の守る精神共同体としての理念が、館の外ではもはや時代遅れとなってしまったからでもあった。「うちとそと」にまつわる日本の風習にのせて、本作では、古いならわしや理念が風化してゆく時代の変遷を語りだそうとする。森が未開でなくなり、形なき神よりも技術をもった実利的神を信仰し、「うち」の存在しない西洋化した家が一般化する*。『神樹の館』は、神様の住める場所がない世界になってしまった、世の移ろいを憂う物語であると同時に、精神共同体としての他者との結びつきが、もはや保持しえない世の中になってしまった現実を憂えた物語でもある。竜胆は人間の想いに応えるため館を守り続けてきたが、いつの間にか時が経ち、人間のほうが神を必要としない時代になってしまった。そのさびしさをうち破るような竜胆と秋成の物語は、人間らしい神という物語を描きつづけてきた、日本の伝統的な“お噺”らしい物語だと感じる。この物語の結びが、名もなきものに名前をつける、という行為であったのも、他者を「うち」としてあたたかく包みこむ心そのものであると感じた。*那越邸が世間ではあくまで西洋館として知られているのもそこが理由であろう。主人の言葉によれば、館が日本家屋の体裁をとっていた時代もあったようである。

 

●付記とその他の主題について

f:id:SengChang:20170604222900p:plain

本作のメインヒロインは一本の大樹であると言っても過言ではない(笑)。西洋の神は常に人非ざるものとして描かれてきたが、八百万の神を謳う日本はそれとは異なり、常に人間と同じ心をもった神を描きつづけてきた。その点も含めて本作は驚くほど精緻を極めた物語となっていた。いやはや見事なものである。

『アマツツミ』に続いて本作も日本語の「音」に注目した掛詞のオンパレードであり、「真珠/神樹」や「那越/和ごし」、いき(息)=「いのち」の「き(気)」など、感嘆のため息が止まらない。この「息=命の気」を麻子に吹きこみ、彼女の人間としての命をとり戻す代わりに秋成が声を失ったり、言葉遊びが内容にまで影響をおよぼすなど、技巧に富んだつくりこみは他作品と一線を画する。

f:id:SengChang:20170604222859p:plain

また身体のモノ化については今回はとりあげなかったが、書物を愛する紫織や秋成が、やがては書物そのものになり自身の人生をそこに綴りつづけるなど、『紙の上の魔法使い』を彷彿とさせる部分もあった。つくりものにすぎないヒトガタの麻子に対し、彼女は自分の生を生きたのだと所感を述べる竜胆の言葉など、まさに魔法の本に抗う主体性を獲得した瑠璃たちを思いださせる。

個人的に面白いと思ったのは、世界は完全なものではなく、ところどころに隙間がある、と秋成が述べていたところ。これは瀬戸口が『PSYCHE』のなかで「駿兄が言うには、世のなかってすごく細かいところまで正確に出来てるんだって」、「こんなに広いのに、その隅々までほんの少しの狂いもなく完全に行き届いているって、そんなこと、本当にあるんだろうか?」と書いたのとは正反対なのである。館の語る歴史に不整合を感じとった秋成は、その隙間に入りこむような形で真実にたどりつくわけだが、その一方で瀬戸口作品の人物たちは、網の目のようにはりめぐらされた常識のネットワークに糸口を見いだせず、その外側で静かに崩壊してゆくのである。ここにはまだまだいろいろな問題が隠されているように思われるので、いつかどこかでなにか書くかもしれない。

f:id:SengChang:20170604222855j:plain