ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『紙の上の魔法使い』: CG Commentary

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「明らかに現実的な生きた完全なもの」として、すなわち自己の「健全さと妥当性」を疑うことのない人物。こうした人間を描かないカフカの作品を称してR・D・レインは次のように述べる。「事実、このような確信なしに生きるとはどういうことなのかを伝えようとする努力こそ、現代の多くの作家、芸術家の作品を特徴づけているように思われる。生きていることを実感できない生」(3 「存在論的不安定」)。こうした自己の不確定性を主題化した、不連続の連続としての自己を主題化した物語のひとつが『紙まほ』である。

名作には至るところに話の接ぎ穂があり、それらを無作為につつきながら、なんとなく物語をふり返ってみようという記事。他作品でもそうなのだけれど、多いときには一作品で千枚以上のキャプをとっておきながら、使わずにあたためておくというのももったいないと思うがゆえ、こうして使ってみようと考えた。私自身にとってもふり返るきっかけになるし、ほかのひとにとっても「こういうCG/科白あったなあ」と物語の漠たる印象を思い起こしてもらえるのではないか。そう思って書いてみたもの。珍しく他者向けに開かれた記事である。

以上は座興。この先はCGだけ見ていってもらっても十分楽しいと思います。

 

●「潜在的な願いが、本当に実現して欲しい願いかどうかは別なんだよ」

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キリスト教的な考えの否定。思うことと語ることはちがうという、本作独自の思想を提示した重要な言葉。後夜の記事でも書いた通り、思うこと自体が罪、と述べたのがクリソベリルで、一方のかなたや瑠璃はこれを否定し、思うことと語ることはちがう、と別のものさしを提示してみせる。思惟=言表が当然の慣習としてあったキリスト教文化と、“空気を読む”慣習を背景に育った日本の文化の、対照的な問答でもあると言えるだろう。

 

●「スリルというのは、人間を狂わせます。私はそんなスリルに身を任せながら、生きたいのですよ」

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『水葬銀貨のイストリア』に繫がる主題。スリルに身を任せなくても幸せは手に入るのではないか、と問う奏に対し、「私の幸せは普通に生きても手にはいらないのですよ」と妃は応えている。スリルは生きている感覚を強く人間に与えるものである、と書いたのは先のR・D・レインであるが、妃がスリルによって生をわざわざ強く意識しなければならなかったのは、実は妃や瑠璃が魔法の本に操られた、紙の上の――考え方によっては紙のようにうすっぺらい――存在であることを暗示していた。

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妃の言葉はさらに、兄妹間の叶わぬ恋心に身を任せることに加え、その後ふたりともが一度命を亡くし、魔法の本によって偽の命を授かるということをも予示していた。彼らの生は普通の幸福とはほど遠いところにあり――それは本篇の作中人物みなに言えることでもあるが――これが瑠璃に「残念だが、幸せになりたいと思ってるわけじゃない」と言わせるに至った。偽物であることを知りながら、偽物であることを貫くという、『イストリア』で追求された実践を思い起こす態度でもある。

 

●「それそのものに意味を見出すより、それが存在したことによって変わった現実を見るべきなのかも」

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過去と現在の相関関係に対する深い洞察。過去は現在によってその都度再定義されるものであり、だからこそ変化した現在を見つめることで、またそれを受けいれることで、過去に対する見え方が豊かに変化するという、『ラブパピ』でも提示された主題がここに垣間見える。これは過去の自己と現在の自己が異なるにもかかわらず、同じ自己として包括的に捉えられる、不連続の連続としての自己という本作の中心主題とも手を結ぶものであった(後夜にて詳述)

 

●「きっかけは偽物だったとしても、その中身は真実ですよ」

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偽物か本物かが重要なのではなく、それを本物、真実として受けとめて生きる覚悟をもてるかどうか、その価値があると誇れるかどうかが大切であるという、妃らしい言葉である。「たとえ妄想であっても、それらは実存的真理を含む妄想なのである。それらの話は、そういう話をする人にとっては文字通り真実なものとして理解されねばならないのだ」(R・D・レイン『引き裂かれた自己』第9章)とレインが述べたように、それが本物であろうがなかろうが、当人にとっての真実であるという点が重要なのであり、むしろ“なぜ真実と見做されなければならなかったのか”、その原点に立ち返ることが、常に他者と関係するうえで求められる態度であろう。

 

●「会いたくなくても、話したくなくても、関わりたくなくても、きちんと物語を語れよ。お前一人じゃ、人と人との物語は語れねえんだよ」

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本作は物語=生が他者との関係で成りたっていることを再確認する物語でもあった。キルケゴール木村敏が指摘してきたように、自己とはすなわち“関係“のことであり、他者とのやりとりによって定められる「関係の関係」なのであり、他者なしにはそもそも存在しえないものである――他者との関わりをもたなければ、そもそも自己と他者を区別する必要すら生まれないため、そこには自己という考えすら生じなくなってしまう。これまで夜子の生き方について誰もなにも言わなかったのは、彼女が少なからず周囲の人間と関わりをもちながら、自身のひきこもり生活を貫いてきたからである。しかし夜子が本当の意味でひとと関わることをやめようとしたからこそ、汀がこのように憤りを見せ、妃が彼女にぶつかり、瑠璃がその心をこじあけようと試みたのであった。

 

●そのほかのCG

「望まないエンディングなら、変えてみせる気概を見せろ。登場人物が、物語を変えることだって出来るはずだ」

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「言葉は本に書いてあっても、意味は自分で見つけるしかない」

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「理央が欲しかったのは、瑠璃くんだけじゃなくて――瑠璃くんを含めたみんなとの幸せだった」

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「隠されたことがあった。秘密だって、たくさんあった。けれど、俺と夜子が過ごした時間に、噓はなかった」

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「本が、物語を描くのではありません。人が、物語を描くのです」

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●付記

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「仕組まれた悲劇」を作為的にひき起こす魔法の本と魔法使い。このあたりは『水葬銀貨のイストリア』に結びつく主題でもある。「本が、物語を描くのではありません。人が、物語を描くのです」という妃の言葉が象徴するように、悲劇にしろ大団円にしろ、それは運命ではなくひとによってもたらされるものだという前提がここにはある。全篇を貫くこの姿勢が私の心にはとても響いた。

『紙まほ』から学ぶべきことは多い。こうして何度も重ねて記事が書けるのは、それだけ『紙まほ』が豊かな物語だというなによりの証拠である。眺める角度を変えるたびに別様の趣が立ちあがってくる万華鏡のような物語。今後も幾度となく立ち返るであろう、本作は私にとって特別な色合いをもった物語なのである。

⇒『紙の上の魔法使い』を読む 前夜(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

⇒『紙の上の魔法使い』を読む 後夜(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

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