ワザリング・ハイツ -annex-

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“ゆがみ”を読む 前夜

「・・・・・・いっそのこと、何もかも全ての境界が壊れてなくなってしまえばいいのに。そしてこのあまりにも公平な現実世界を、少し歪めて欲しい。」(唐辺葉介『つめたいオゾン』)

わたくしごとになるが、2015年の私にとって最も大切な書き手でありつづけたのは、木村敏という精神科医精神病理学者である。木村の一連の著作を読んで私自身が十数年負いつづけてきた心の問題にようやくひとつの区切りがついた。もちろん、だからこそと言うべきだろうが、今度は自分の言葉でこの問題を語りなおす必要があり、それがこれからの私自身の課題だと思っている。自分の心身――心を捉えるうえで身体はどうしても切り離すことができない――と向きあい、さらにはその経験を作品に向ける仕事である。

冒頭の文章は唐辺葉介瀬戸口廉也)の『つめたいオゾン』からの引用である。世の中がゆがむことを暗に望むのは、この中村花絵自身が他者からゆがんだものとして扱われてきた過去をもつからである。花絵の言葉には切実な思いが滲みでており、物語自体も、花絵のこの言葉を軸にして主題が展開される。受けいれがたい、しかし受けいれざるをえない現実と、どのように向きあってゆくのか。それが瀬戸口作品に通底する深刻な主題のひとつである。

私が木村の著作を読んで感じとったものはまさに花絵の言葉に顕現する“ゆがみ”の重要性であった。統合失調症患者の思いこみ、たとえば現実を否定する関係妄想などは、どうにもならない現実をどうにかして否定するため、否応なく必要とされるものだと考えられている。親子の間で問題が生じる場合、親子関係そのものを否定する妄想を現実と思いこむことで、問題そのものをなかったことにしてしまうのである。のちに木村は、『力への意志』におけるニーチェの言葉を借りながら、こういった妄想は患者にとっての“真理”なのだと説明している。

真理とはそれがなければある種の生物が生きられないような誤謬のことである。(ニーチェ『権力への意志』(断章493; ちくま学芸文庫版*)*訳は木村敏『偶然性の精神病理』のものを引用。

耐えがたい現実を生き抜くために、患者は「世界全体の意味を改竄し」、「現実の不可能を非現実の可能」に変えてしまう(木村敏『偶然性の精神病理』「Ⅱ 真理・ニヒリズム・主体」)。自らゆがみを抱えこむことで生き抜く力を得ようとする。木村の分析が当を得ているのは、なにも精神病患者の症状が共有する一点を突いているからだけではない。健常とされる私たち自身も無意識のうちに自分にとっての真理を頼りに現実を生きているからである。木村の論議に切実なものを感じたのは、彼が一貫して精神病患者と健常者とを並列に語ろうと努めているからである。また木村やニーチェが言及した“真理”についてはR・D・レインが同じことを指摘している点も興味深い。

たとえ妄想であっても、それらは実存的真理を含む妄想なのである。それらの話は、そういう話をする人にとっては文字通り真実なものとして理解されねばならないのだ(R・D・レイン『引き裂かれた自己』第9章)

否定的な結果から無理に肯定的な教訓を導いたり、苦痛をまぎらすためになにかに没頭したりすることは、私たちにとっては生きるために必要不可欠なものだと言ってよい。私たちはいつも自分が拠りどころとすべき真理を選択して生きている。そうして選択した真理がわずかに“一般的”ではなかったとき、ひとは心を病んだ患者として認識されることになる。だがそこには、一般的か否かという、実に“一般化された”基準があるのみで、相対的に見れば、精神病患者も健常者も生き方そのものに大差はない。ただ懸命に現実に適応しようと選択した真理が過度に非現実的な異趣であったというだけにすぎない。

やや前置きが長くなってしまったが、ここから見えてくるのは、人間が生きてゆくうえで必要とする真理が“ゆがみ”となって、その人間の生における障害になってしまうという、いささか矛盾に満ちた事態である。そのゆがみをとり除いては生きてゆけないのだから、どうにか折りあいをつけるほかない。そのときどんな物語がそこに生まれているのか。私がこの場所に書き残しているものは、私自身の“真理”を相対的に捉えなおすための、荒削りな軌跡だと思ってもらえばよい。

⇒“ゆがみ”を読む 第一夜(木村敏『自覚の精神病理』) - ワザリング・ハイツ -annex-