ワザリング・ハイツ -annex-

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『すみれ』を読む(感想・レビュー)

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・・・・・・ん?浅いぞ?というのが読了後の率直な感想。それはおそらく私がナルキッソスシリーズの深みをのぞいたことのある人間だからなのでしょう。しかしながらいろいろと面白い試みもあったのでそのことについてここでは少しふれておこうと思う。決して面白くないわけではなかったし、すみれとあかりの物語は、物語る妙技を突きつめて“テクストに遊んだ”ゲームらしいつくりであると感じた。

 

●“物語”の響きあいという間テクスト性

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『すみれ』のなかの作中人物にねこねこソフトの過去作品『みずいろ』を鑑賞させ、それを人物の問題解決の鍵にするという、小説内小説の手法がとられている。『みずいろ』の健ちゃんから自身のハンドルネームをとった主人公“健ちゃん”は、『みずいろ』のなかで日和を救ったように、果断な心ですみれを救おうと足を踏みだすのである。ノベルゲームの作中人物がほかのノベルゲームの作中人物に影響を及ぼすというポストモダン的な物語。一定の読者をもつ歴史あるメーカーだからこそできる、間テクスト性の特質を生かした興味深い試みである。

さらにあかりルートでは、主人公とあかりがふたりで創作した物語が、本筋と並行して語られることにより、あかりの心のうちや彼女の主人公に対する想い、あるいは主人公の特徴的な一面について、間接的に肉づけされるようなつくりになっている。いわゆる物語の並列構造が本作の軸となっており、ネット世界での三人の交流もひとつの仮想の“物語”だとすれば、『すみれ』という作品では常にふたつ以上の物語が同時に展開しているということになる。ネットやゲームから脱して現実を選択するというのではなく、様々な世界を往来し、あらゆる“物語”を使って他者を救済しようとする。ノベルゲームらしい柔軟な手の広げ方である。

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しかし実際のところ、物語が併存する状況は特別な文脈で起こるわけではない。私たちは日頃から他人の人生という物語や創作物といった別の物語から大きく影響を受けており、それらすべてを自分の人生という“物語”として括って生きている。日常的に私たちの経験している物語体験を、改めて意識的に前景化する試みが、本作でとられた小説内小説の効果であると言うべきかもしれない。

すると私たちは、必然的に彼らを複眼的な視点で見守ることになる――ネット世界を積極的に扱う本作では、現実やネット、あるいは創作世界に限らず、“物語”は常に複数の物語から成り、互いに干渉しあうため、ひとりの人物の言動や特徴にしばしばゆれが生じる。しかしそれらのペルソナすべてが“そのひと自身”なのであり、多を一として受けいれるのが、主人公に課されたヒロイン救済の条件なのであった。だからこそ本作自体も一が多を含むような――物語の並列構造や過去作品がプレイできるなどの――つくりである点がことさら興味深く見えるのである。構造と内容が響きあう作品は『運命予報をお知らせします』『水葬銀貨のイストリア』が記憶に新しい。

 

 

●個々にとってのリアル(現実)

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口下手で感情をうまく表に出せないすみれや、他者に対して自分から壁をつくってしまう雛姫の内面は、ネットの人格・アバターを通じて主人公に語られる。自分のことを誰も知らないネットのなかでは、彼女たちは自分の気持ちを素直にさらけだすことができる。ネットでのペルソナは当人たちの理想の姿であり、また現実の自分が眼をそむけてきた弱さの裏返しでもあり、だからこそ彼女たちの素直な姿とも言えるのであった。そのことに気づくとき、主人公は彼女たちが本当はなにを思っているのかに思いいたり、現実でも彼女たちに近づけるようになってゆく。

ネットで気持ちを共有したり吐きだしたりすることで、それが現実の自分を少しずつ変えてくれる。あるいはネットでかけた言葉が現実の他者の背中を押すことがある。『すみれ』はそんな物語である。あたたかい視点がとてもねこねこらしいと思う。

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また、あかりルートの主眼である「眠り病(ナルコレプシー)」という病は、吉本ばななの『白河夜船』で出てきたものでもあった。眠りは本来生きることの一部にほかならないが、「寝たふり」が生きることを侵食し、生きたまま死んでいるような状態にひとを陥れる、文字通りの“病”として本作では認識される。あかりルートにて、本筋とともに創作した物語が並行して語られる複雑な構造は、起きているのか眠っているのかわからない、あかり自身の思考の世界を比喩的にうまく表したものでもあった。

現実のあかりは眠りの世界に生きることを選択する。そんなあかりの創作した世界では、彼女は主人公としか関わりをもたず、ほかの人間とは「とり憑く」ことでしか交流することができない。そうした設定を鑑みるに、あかりもまた『猫物語』の羽川のような石化(Petrification)した世界に生きる、関係の病に陥った人間であることがよくわかる。だからこそ、過去、現実、仮想世界と、複相にわたる関わりを築きあげた主人公との交わりは、石化したあかりの世界を物語によって変革し、彼女を眠りの世界からひきあげることができたのである。

 

●付記

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ナルキッソス -スミレ-』をひき立てるためのレビュー。一緒にしようかとも考えたが、あまりにも別物のため、結局は記事を分けることにした。実際に『ナルキスミレ』では、『すみれ』本篇の物語を大きく読みかえる必要があるため、すみれやあかりの抱えた問題の意義を改めて捉えなおす必要があり、それゆえ分けざるをえなかったというのが本当のところ。

ぼっちの世界を脱するのはここまで簡単ではないはずで、人間関係の根の深さや、本当の意味でのしがらみを、一度棚上げにして出した答えにほかならない。その意味でやはり『ナルキスミレ』のほうは真に迫っており、あかりが健ちゃんと雛姫に関わりをもつにいたる動機づけも、『すみれ』より厚く肉づけされていると感じた。このあかりルート再定義については次回の『ナルキスミレ』の記事にて詳述する。

それにしても選択肢が縦書きなのはとても美しいと感じた。風情ですね。それから、あかりのEDで流れた「ピアノ」という曲は、1980年にリリースされた名曲、高田みずえの「私はピアノ」と和声がかなり似ており、おそらく意識してつくっているものと勝手に思いこんでいる(私の大好きな曲である)。「ピアノ」のほうもとてもよい曲で大変私の気に入った。

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