ワザリング・ハイツ -annex-

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夢野久作を読む

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ドグラ・マグラ』だけでなく、「瓶詰の地獄」や「死後の恋」もまた、自己の基盤が足元から崩れさるような物語であった。夢野久作はそれを“生来の運命”に紐づけて語り、多くの作品で家や出生の問題を中心に据える。『ドグラ・マグラ』の面白いところは、ほかの誰でもない“私”の歴史的自己を、他者が形作り、他者が語り、他者によってしか証明されえないものとして問題化したところにある。本来であれば“私”の歴史は“私”によってしか語りえない。“私”の歴史を経験した主体は唯一“私”だけなのであり、そこに他者の入りこむ余地はないのである。しかしながら『ドグラ・マグラ』では、自己同一性の源である自己の歴史的背景が他者によって握られており、そこに“私”はアクセスできない、という矛盾が語りだされる。いまでこそ記憶喪失の人物は物語の定番となりつつあるが、百年近く前にすでにその主題を扱い、精神病理を前景化した物語を書いた夢野久作の先見の明には感服する*。*英文学で19世紀頃から精神病理が科学的に捉えられはじめたという背景は以前『CARNIVAL』の記事にてふれた通りである。日本では20世紀以降にその潮流が現れはじめるものの、初期の段階で精神病理についてここまで深刻にとりあげた作家は、夢野久作だけであったと思われる。

「死後の恋」は、リヤトニコフが女性であると気づいたコルニコフが、ふたりのそれまでの関係を再定義する話であり、リヤトニコフの自己同一性がコルニコフのそれを大きく変革してしまう物語であった。また「瓶詰の地獄」もやはり関係の変化と自己の問題を主題とする物語である一方、聖書が非常に重要な役割を果たしている。キリスト教がなければふたりは性的な関係を罪とは思わず暮らしてゆけたはずであるが、しかし彼らは聖書の説く道徳を知ってしまい、自らの求めるものが禁忌であると知ってしまう。両作ともに、自己の形成やその自覚についての心の動きが見事に問題化されており、複相的な主題がよく表現された怪作である。

また「瓶詰の地獄」は、様々な矛盾点をどう読むかという、芥川の「藪の中」を彷彿とさせる問題をはらむ。これは『ドグラ・マグラ』にも言えることだが、「瓶詰の地獄」はそもそも明らかに矛盾が生じるように書かれており、「藪の中」と同様、真実を特定する推理に興じたところで明確な答えは出ない。細部を徹底的に検める必要がある一方で、こうした物語では矛盾そのものが重要であり、そこにどんな意義があるのか、その矛盾がなにを可能としているのかをむしろ問うべきであろう*。「瓶詰の地獄」においては、細部の矛盾がゆえに、彼らの手紙の内容の信憑性が必然的に括弧に入れられ、さらには精神錯乱の可能性も考慮に入れなければならなくなる。無人島で時間の感覚も失うほど長くふたりきりで暮らしてきた人間の言葉を、そのまま素直に信じることができるわけもなく、そういった諸々の問題が矛盾を通じて効果的に表現されているのだと言えよう。*『最果てのイマ』の記事でこの点については詳しく書いた。

こうした作風は『少女地獄』にもそのまま映しだされている。噓をふりまいて生きる姫草ユリ子の言説によって、次第に周囲の人間は現実の様相を素直に受けとることができなくなってゆくのである。真実か否かという問題だけでなく、真実と虚偽がいかに表裏一体であり、同じ言葉で語りうるものなのかという、不確定性の問題がここでは大きくとりあげられている。しかも姫草ユリ子自身も、自らの自己を明確に定立させることができず、まさに不確定性のなかに生きる主体そのものであり、噓によって他者を撹拌するだけでなく、自身の心も同じように幻惑して生きているのである。『少女地獄』は、自己の断絶によって他者との関係が不整合となり、それを正そうとするたびさらに自己を偽らざるをえなくなるという、乖離の真実を緻密に描いた物語であった。

冒頭でも述べたように、以上のような問題がすべて、自己の問題を枢軸とした『ドグラ・マグラ』のなかに結晶化されているのだと言えよう。小品を読むことで夢野久作の中心主題については理解を深めることができるので、『ドグラ・マグラ』以外を手にとるのであれば、先に挙げた三作のうち、どれかを読むといいのではないかと思う。日本文学の主流とは一線を画した、しかしいまから見ても非常に文学的価値の高い、重要な作家のひとりであることは疑う余地がない。