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“ゆがみ”を読む 第一夜(木村敏『自覚の精神病理』)

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ドイツで書いた論文を邦訳して出版した、木村敏の文字通り最初の著作である。ヨーロッパから輸入しただけの日本の精神病理学を、日本人に適応するため“日本的に”変革しようと試みたのが本論であり、中期・後期にわたる木村の思索の萌芽が垣間見える重要な一作である。本書にはすでに、木村の哲学がほぼすべて包含されていると言えるし、何十年も一貫して同じ主題と向きあう木村の底知れない熱意には、もはや畏怖の念すら覚えるほどである。

 

●前提

木村は「欧米人は「自我」というものをきわめて実体的、固定的に捉えているのに対して、日本人はこれを全く非実体的、流動的に感じとっている」(8)とし、欧米人とは異なった日本の自己の問題に分けいってゆく。さらには、他者によって自分というものが明確化するという西田の考えを参照しながら、他者によって常に変化する自己の姿を捉えようとする。このあたりはヴァイツゼッカーとも響きあう姿勢であり、実際に後期になるとヴァイツゼッカーの哲学が木村の思索の軸となってくる。

また、前記から中期にかけて木村の頻用する用語として、ノエマノエシスというものがある。

「意識」とか「構造」とかが問題になる以前に、私が音楽を聞いている、あるいは私が美を感じている、ということは私にとってはもっとも素朴で直接的な事実である。さらに言うならば、「音楽」とか「美」とかが、さらには「私」ということすらも「意識」される以前に、(「聞いている」という)事実が開かれている。言葉を用いなければならない最小限ぎりぎりの苦しまぎれに、(「聞いている」という、あるいは「感じている」という)“こと”があるとでも言っておこう。(10-11)*原点では二重括弧内は傍点。

意識以前の、自他の区別もない、ただ純粋に事実が開かれた状態のことを木村はノエシス的であると言い、そののち「美しい音楽」や「音楽を聞いている私」など、名詞的に切りだされて対象化される「私」や「音楽」、「美」などのあり方をノエマ的であるとする。端的にいうならば、固定化されたものをノエマ(「もの」あるいは「対象的存在」、「主語的」)、流動的なものをノエシス(「こと」あるいは「状態的存在」、「述語的」)と区別することもできる。このあたりは『あいだ』においても詳述されているので、そちらも参照されたい。

 

離人症について

木村が長く診察していた離人症の患者の、症状についての所感は以下のようなものであった。

テレビや映画を見ていると、本当に妙なことになる。こまぎれの場面場面はちゃんと見えているのに、全体の筋がまるで全然わからない。場面から場面へぴょんぴょん飛んでしまって、そのつながりというものが全然ない。時間の流れもひどくおかしい。・・・・・・てんでばらばらでつながりのない無数の今が、今、今、今、今、と無茶苦茶に出てくるだけで、何の規則もまとまりもない。私の自分というものも時間といっしょで、瞬間ごとに違った自分が、何の規則もなくてんでばらばらに出ては消えてしまうだけで、今の自分と前の自分との間に何のつながりもない。(18)

これは自己が不連続の連続であることを明白に示すものであるが、そういった不連続の自分を束ね時間や環境と紐づける“働き”こそが、まさに自己の生そのものなのである*。普段は意識することもない、こうした自明の働きがなんらかの形で阻害されてしまったとき、私たちは離人症状を経験をすることになる。ここで言う阻害とはすなわち、私が在るという「こと」と他者や事物が在るという「こと」が、なんらかの要因によって切りはなされてしまうことである。*この働きこそがノエシス的自己の働きであり、ここに障害があるからこそ、自己や時間がノエマ的にばらばらに切りだされたうえ、散逸してしまうのである。

具体的な例としてたとえば、眼の前にある花を見ている、という場面を想定する。「花がある」という状態を、理解はできるが、実感としてはわからない、というのが離人症状であった。「花がある」という現在は、私が欠けても花が欠けても成立しない、自他の分かちがたい「場所」であり、これがなんらかの原因によって切りはなされてしまうと、「花がある」という状態をいきいきと感じることができなくなってしまう。

「自分がある」ということは、「この花がある」という“ことにおいて”はじめて成立しうるのであり、また逆に、「この花がある」ということは、「自分がある」という“ことにおいて”、はじめて言えることなのである。「自分がある」という“こと”と、「この花がある」ということとは、この「“において”」という“場所”を共有している。(31)*原点では二重括弧内は傍点。

このように、私と他者・事物との間で当然共有されているべきものが、なんらかの要因によって阻害されてしまうとき、私たちは自己や世界をいきいきと感じることができなってしまう。健常であれば共有されていることすら意識しないこうした「場所」からの疎隔が「離人」と呼ばれる病状である。

先にも少しふれたように、ここには当然、自己の連続性の問題も大きく関わってくる。過去・現在・未来の私が同一である事実は、自分が自分であるためのいわば自明の前提条件である。しかし実のところ、私たちの心身にはそれを保証してくれるものがなにもなく、離人症状はその傷口を開くようにして現出する。

性格のようなものはそれぞれの人間に独特なもののように考えられているけれども、性格が根本的に変化したとしても、――たとえば精神病の場合のように――それだからと言って、その人がその人でなくなるわけではない。しかも、人間の心の内容に至っては、身体の機能以上に複雑な、一見全く無秩序な、万華鏡のような変化を絶えず続けている。そこにはどう見ても、連続性や同一性とはまるで逆の現象しかみあたらない。(47)

自同性が保持できなくなる離人症状が、あくまで関係の病として定義されうるのは、他者とのコミュニケーションが常に他者と「場所」を共有することにより成りたつからにほかならない。あるいはこれを距離と言いかえてもよい。私たちは他者とうまく距離をとって付きあうものの、これがうまくできないおりに、コミュニケーションが不十分だと感じることがある。他者とうまく「場所」を分けあえず、それが当人の心の強度を度しがたく侵すとき、場所と自己との切りはなしが行われてしまうことがある。世界から疎隔された自己は、自己を定める他者・事物に出逢うことができないため、自同性を保持できなくなってしまう。すると“私”という存在は、統合されることのないばらばらの自己のかけらとして、浮遊せざるをえなくなってしまうのである。

⇒“ゆがみ”を読む 前夜 - ワザリング・ハイツ -annex-

⇒“ゆがみ”を読む 第ニ夜(『時間と自己』) - ワザリング・ハイツ -annex-