ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『AIR』を読む 後夜(感想・レビュー)

f:id:SengChang:20170823180843p:plain

AIR』ではどのルートでも“夢”が大きな役割を果たし、人物たちの自己同一性にゆさぶりをかけ続ける。夢とはすなわち物語である――本作は物語についての物語、言うなれば、私たちが物語とどう付きあってゆくのかを問いかける物語でもあり、現実と物語の関係について穿った視点を提供してくれる。その点で『AIR』は現実に強く爪を立てるフィクションの猛威を感じた作品のひとつであったと言える。

 

●「場」の物語への批判

f:id:SengChang:20170823180849p:plain

CLANNAD』も含めてKey作品は「場」を描いた物語が多く、私たち日本人にとってなじみの手続きないしクリシェを、手を変え品を変えこれでもかというほどくり返し描きだしてみせる。それは裏を返せば、すべてを記号化された物語として見做しうるということであり、Key作品が大いに批判される理由ともなった。個々の人物が等しくもつ替えのきかない自己像にではなく、あくまで彼らのつくりだす「場」に焦点化し、記号化された人物たちが特定の手続きを踏むことで生じるパターン化された内的葛藤を、読者は消費しているにすぎないと批判されてしまうのである。

AIR』について例を挙げるなら、美凪ルートが『CLANNAD』の風子ルートとほとんど同じ型で、人物の名前とイベントを変えて同一の手続きを踏ませていることに気づいたひとも多いのではないか。こうした交換可能な人物や出来事で構成されている点が「場」の物語の特徴である。Key作品をよく知るひとほどこの点を批判したくなる気持ちが出てくることも確かであろう。

f:id:SengChang:20170823180844p:plain

f:id:SengChang:20170823180848p:plain

「場」を書いて人間を書かない作品は、特にノベルゲームにおいて掃いて捨てるほどあるけれど、その一方で自分はわりとKey作品を気に入っている。理由をひと言でまとめるならば、『CLANNAD』や『AIR』のすべてが「場」の物語によって構成されているわけではない、ということになろうか。美凪ルートについても、前夜にて詳述したように、関係妄想の主題を扱いながら自己の在りようについて描きだしているし、「AIR」篇の物語もまた、日本固有の“家”の問題に包摂される自己の主題を扱っており、自己と他者の関係に眼を向けた家族の物語を語りだしている。人物が物語を構成する背景と化してしまうのではなく、自己の歴史に光を当てて自己同一性に焦点化する、いきいきとした物語であったように思う。

それゆえ『AIR』や『CLANNAD』の読解を、物語構造だけをとりだした無味乾燥な分析で片づけるのは、非常に惜しいと思うのである。前夜で紹介した切り口はその点を踏まえたものであり、諸方で指摘されていないとおぼしき読みを提示したつもりである。名作『AIR』についての議論が少しでも豊かなものになれば個人的にはとてもうれしい。

sengchang.hatenadiary.com*「場」についての物語というのは、吉本隆明が娘の吉本ばななの小説を称して用いた言葉である。「君の作品のひとつの特徴は、人間を書いてるわけじゃなくてね、ひとつの“場”を書いてるんだと思うのね・・・・・・その中で一人の登場人物と別の登場人物との関係は千差万別あって、それでそれは描かれているんだけど、個々の登場人物の性格などはそんなに書かれてない。・・・・・・君の場合には、人物はいつでも交換ができるんだと思う」(『吉本隆明×吉本ばなな』123-24)。ばなな自身も『TSUGUMI』のあとがきで「人間というものを一つも描いていません」と言及している。上記の視点を踏まえ、ここで「場」の物語について言及したと思ってもらえればよい。

 

●“物語”という記憶の拡大

f:id:SengChang:20170823180846p:plain

興味をひくエントリーがあったので、珍しく話の接ぎ穂にしてみたいと思う。

「十年目の「AIR」解説 ~AIRのコードが示すもの~」(http://d.hatena.ne.jp/crow2/20110103)

ここで述べられているのは、観鈴や往人の背負った記憶=歴史がすべて虚構(fiction)にすぎないという仮定である。確かに、往人の母が語った話、観鈴の夢、あるいは「SUMMER」篇の物語についても、それが歴史の記憶であることを証明しうる根拠は作中には見当たらない。しかし作中の夢や歴史的出来事をすべて虚構と解してしまえば、そもそも「SUMMER」篇をはじめとする物語の意義が失われてしまう。だがそれでもなお、ここで指摘された観点は注目に値する――すべてが虚構かもしれないという仮定は、それはいったい誰にとっての虚構なのか、という問題をはらむ。「SUMMER」篇で語られた翼人の悲劇は、柳也たちにとっては真に迫る現実であったとしても、代々語り継がれたのちの、往人の母や往人、観鈴にとっては、それはあくまで遠い過去の「物語(fiction)」にすぎないからである。すると『AIR』という作品は、時代を経て育ちつづけた現実がフィクションへと変質し、それに囚われた他者のリアルをフィクションが内側から喰い破る物語として見えてくるのである。物語に囚われた人間は観鈴たちであり、彼女たちを見守る私たち自身もその例外ではない*。*これは東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』での議論とも響きあうところがあるし、『ONE』という作品がある以上、ノベルゲームのシステム的特徴を逆手にとって、プレイ姿勢を読者に問いかける狙いが本作にあったと考えることはできるように思う。しかしそれが意味のある問いかけかどうかはまったく別問題である。

f:id:SengChang:20170823180847p:plain

f:id:SengChang:20170823180850p:plain

現実であれ創作であれ、渦中の人物以外にとって、その物語はあくまで“物語”にすぎない。そうした物語が拡大し、現実を凌駕してしまうがために、命を落としてしまう観鈴観鈴を救うために、真偽のほどがわからない口頭伝承を文字通り力として使う往人。翻ってみるとこれは、現実のひとの生き死にを大きくゆさぶるほど、物語が力をもちうるという大それた主張ともなりうる。観鈴の死と往人の疎外はやりきれないものであるが、『AIR』の結末は同時に、歴史的事実であろうと一介のお噺であろうと、“物語”は私たちの現実を大きく変革できるという、ひとつの可能性を示したものとして受けとめられるのである。

大切なひとを救えない現実の過酷さ、そしてメタフィクションとしてのプレイヤーの不毛を中心とし、冷酷に突き放した作品としても解されてきた『AIR』だが、現実を凌駕する物語という主題をとりあげるとき、『AIR』を前向きな作品として捉えられると感じた。ポスト構造主義的な読みで、既存の慣習を壊すことに終始するのではなく、十七年が経ったいまだからこそ、肯定的な『AIR』の再評価を強く促したいと思う。

 

●後夜の付記

f:id:SengChang:20170823180845p:plain

東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』(あるいは『動物化するポストモダン』)では、主に『AIR』の物語モデルについて扱っており、本作のポストモダン的特徴についてはそちらを参照するとよい・・・・・・かもしれない。ただし物語に寄り添った分析ではなく、あくまで社会学的な論点をはじきだすための、構造分析に終始していることは言を俟たない。まあ、東氏だからね(笑)。

f:id:SengChang:20170823180841p:plain

それから口承伝統(民間伝承)や神話といったお噺と、紙芝居の文化はとても相性がよいせいもあってか、ノベルゲームに載せて語られる昔話はやはり面白い。『YO-NO』や『痕』も含め、黎明期とも呼べる時期に伝奇を巧みに物語へ織りこみ、作品を生みだした作家の技量は評価されて然るべきである。これまでプレイした作品では、『神樹の館』『向日葵の教会と長い夏休み』『腐り姫』などがすぐれた伝奇ものとして挙げられるが、今後も日本の文化的特徴を注視した奇々怪々な物語を積極的に読んでいきたいものである。

今回は二夜にわたって『AIR』の肝要を整理してきたのだけれど、個人的な雑感としては、あらすじや特徴だけを聞きかじっていたときと実際にプレイしたあととでは、大きく印象が変わった作品であったと感じる。またヒロイン三人ともがそれぞれ独自の魅力を具え、楽しく読み進めることができたのも大きかったように思う。物語構造ばかりに注視した作品が多いなかで、ひととひととの関わりを、時に冷たく時にあたたかく扱った名作として、今後も幾度となく参照され続けるであろう作品である。

⇒『AIR』を読む 前夜(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

⇒『AIR』を読む 補遺(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

f:id:SengChang:20170823180842p:plain