ワザリング・ハイツ -annex-

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“ゆがみ”を読む 第ニ夜(『時間と自己』)

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『自覚の精神病理』でもふれた、「こと」と「もの」というおなじみの議論から、時間=自己という考え方を導入し、分裂病統合失調症)や鬱病の議論へと進んでゆく本書は、木村の中期までの哲学を体系的にまとめ直した、入門にふさわしい一冊である。木村敏の著書のなかで本書は私が一番はじめに手にとった思い出深い一冊でもある。

『時間と自己』の基幹を成すアンテ・フェストゥム/ポスト・フェストゥムの概念を用いた分析はさておき、鬱病について論じた節がとてもわかりやすくて役に立った。テレンバッハが『メランコリー』のなかで論じた「メランコリー親和型」についての議論に言及しながら、役割同一性を軸に、日本人に多い鬱病の精神病理を論じたくだりは一読に値する。

 

●“いまここ”という時間と自己

『自覚の精神病理』でも問題となった、統合された自己の不成立、すなわち不連続の自己の問題について、本書で木村は次のように述べている。

この“いま”のひろがりを「いまから」と「いままで」との両方向に展開してみたときに、そこではじめて未来と過去のイメージが浮かび上がってくる。・・・・・・“あいだ”としての“いま” が、未来と過去を創り出すのである。(29-30; 括弧内は原点では傍点

 

“いま”が“いま”として成立しないところでは“私”も“私”として成り立たず、逆に言って“私”が“私”たりえないところでは“いま”も“いま”であることができない。(54; 二重括弧内は原点では傍点

時間も自己もともに「もの」的面と「こと」的面の両者をそなえたものである。時計によって確認したりと、はかることのできるのが「もの」化した時間であり、空間化された時間である。その一方で、時間の流れを速く感じたり、あるいは遅く感じたりすることがあるのは、時間と自己とが互いに働きかけているからであり、ここで主体が感じている時間は「こと」的な時間なのだと言える。こうした時間と自己の二面性を捉えたうえで、それらの「こと」的な面がなんらかの障害で損なわれるとき、時間や自己は本来のように統合されたものではなくなる。解体されてしまった両者は不連続な“いま”が続くだけの意味を成さないものとなってしまう。主体は「いきいきとしたいま」が成立しえない、現在の不毛な連続のうちにとり込まれてしまうのである。

こうした自己の自同性と、自分のうちで流れる時間の流れ方に着目し、木村はこれを統合失調症鬱病の分析に当てはめてゆく。ここでは主に鬱病の分析をとりあげて木村の論点を整理してみたい。

 

鬱病者の役割同一性

鬱病者の特徴としてテレンバッハが指摘したのは「インクルデンツ」という傾向であった。これは独特の秩序のうちに自らを閉じこめることで安定を得るという鬱病者に多い生活傾向のことである。対人関係において、多くの鬱病者は他人のために尽くす傾向にあると言われ、この「秩序愛好性」が鬱病者の「役割同一性」の問題の中心にあるとされる。

躁鬱をくり返す両極型に対し、鬱だけがある単極型の鬱病は、特に「メランコリー親和型」と呼ばれる。メランコリー親和型の大きな特徴は、「独特の仕方で秩序の中に“はまり込んで”しまっていて、そこから“抜け出せない”という、特別な形の几帳面さ」にある(104)。つまりは、家庭や仕事での自分の立ち位置や、こなすべき日々の仕事なども含め、自分の果たすべき役割が明確に決められた生活のなかで勤勉に自身を保つという傾向だと言えよう。このように、ある一定の役割を担うことで自己同一性を保つ仕方を、クラウスの用語を借りながら、木村は役割同一性として説明する――すなわち、「私にとって特定の立場にいる他者から、私がかくかくしかじかの役割行動をはたすことを期待され、私がその期待にこたえて遂行する役割行動に応じて当の他者から認知されることによって、はじめて成立するような自己のありかた」のことである(116)。

しかしこういった役割は生活のなかで日々変化してゆき、進学や転職、人間関係の変化など、以前と同じ役割秩序のうちにとどまり続けることはほぼ不可能だと言ってよい。その秩序が壊れてしまったおりに鬱が生じやすいわけだが、その背後には「レマネンツ」という、自分に対する負い目の気持ちが隠れているのだと木村は指摘した。

鬱病者においては、時間が全体としてポスト・フェストゥム的に「とりかえしのつかない未済」の相のもとに意識されるため、いっさいの現在が未済のまま過去へ向って押し流され、しかもこの過去が巨大な“未済の蓄積”として、怖るべき仮定法的可能性の集団として、現在完了的に、現在のこととして経験されるのである。(113-14; 二重括弧内は原点では傍点

それまでの秩序を失い、自分自身の明確な役割が失われるとき、ひとは「とり返しがつかない」という気持ちを抱く。そういった過去の自己に対する負い目を克服できないまま迫りくる現在ないし未来が未知のものとして自己の存立を脅かす――過去は過ぎ去った、完了したものしてではなく、未済のまま現在完了的に現在を圧迫しつづけるのである。常にうしろを向いて現在と向きあうメランコリー親和型の人間にとって、未来は過去-現在と地続きのものではなく、自分の嵌まりこんだ秩序、あるいは崩壊した秩序の再構築を阻む未知のものとして恐怖の対象となってしまうのだ。

このようにして鬱病者のもつ秩序愛好性は、役割同一性を壊すものとしての未知なる未来への、徹底した恐怖を促す要因となってしまうのだと言えよう。だからこそ彼らは、「他者についても、自己のこれまでの役割同一性の継続を認知してくれるような人物しか期待しない」(123)。現在が過去によって支配されている状態を形容し、木村は鬱病者の時間をポスト・フェストゥム的であると定義した――「あとの祭り」を意味するポスト・フェストゥムという言葉が表すのは、とり返しのつかない過去が現在を侵害し、過去の秩序をとり戻せぬまま未知の未来を恐れて生きる生き方のことである。

 

●付記

今回ふれた「メランコリー親和型」と「役割同一性」については、実際に『遥かに仰ぎ、麗しの』と『水葬銀貨のイストリア』の記事でふれており、そちらにより具体的な例を提示してあるため、ここではあくまで抽象にふれるだけにとどめた。

sengchang.hatenadiary.com

sengchang.hatenadiary.com私自身、十代のころからこのあたりの精神病理には親しく、だからこそ本書の着眼には大変興味をひかれたのであった。木村敏の著作は特に鬱病離人症についての論考が大変すぐれている。まさに“自覚の精神病理”に導いてくれる豊かな一冊であると言えよう。

⇒“ゆがみ”を読む 第三夜(『あいだ』) - ワザリング・ハイツ -annex-

⇒“ゆがみ”を読む 第一夜(木村敏『自覚の精神病理』) - ワザリング・ハイツ -annex-

⇒“ゆがみ”を読む 前夜 - ワザリング・ハイツ -annex-