ワザリング・ハイツ -annex-

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『腐り姫』を読む 前夜(感想・レビュー)

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これは“内側に閉じたセカイ系”とでも言うべきなのか。読書というのは往々にして同じテーマを呼びこむもので、この前にプレイしていた『AIR』『神樹の館』と問題意識を分かち、家の因縁を受けついで延々とくり返しつづける恐ろしい物語である。五樹と樹里だけでなく、両親である健昭と朱音もまた複雑な背景をもち、ニ世代で累々として悲劇をくり返すループもの、流転ものとなっている。よい意味でエロゲらしい、決して表に出せない種類の物語であったと言える。いいぞLiarもっとやれ。

同じ時間をくり返す円環構造がループものの特徴だが、本作ではその意義がかなり意外なところに帰着する。物事が循環する閉塞的物語をここまでおそろしいと感じたのは私自身はじめてであった。Plottingとはかくあるべし。

 

●円環構造の意義

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腐り姫』の基幹は、山尾悠子の「遠近法」やジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』で表されたような、物事のはじまりと終わりが接続するウロボロス的円環構造に支配された物語である。だからこそ『腐り姫』では未来がいっさい描かれず、物語の終わりがすべてのはじまり=過去に結びついて幕が閉じる。物語の舞台は帰省してからの四日間のみであり、結果的にはそれすらもすべてただのまやかしに過ぎず、あくまで過去を明らかにするための一種の合わせ鏡のようなものでしかない。各ヒロインもまた、過去から抱きつづけた自分の思いを遂げると――つまりは五樹と“関係”すると――あえなくこの世から消え去ってしまう。彼女たちは未来に対する意志をまったく抱いていない。五樹と蔵女は最後に未来について言及するが、彼らがゆきつく先は結局のところ過去であり、厳密な意味では記憶を消して同じ時間をくり返しているに過ぎない。

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過去の真相を探ることが唯一の目的となり、五樹の過去が自己の実存的根拠となりえないのは、彼がもうすでに死んでいるからにほかならない。過去の真相が明らかになったところで、五樹が生きる力を得ることはなく、ただ自らの死の事実を自覚するのみなのである。だからこそ死んだ五樹が最終的に選択するのは、過去に戻ること、すなわち転生して自分が生まれる前に戻ることなのであった――後ろ向きに進む答えを出す物語などはじめてである。徹底的に現在を否認した結果なにが生まれたかといえば、それは“私とあなた”という完結した閉塞的二人関係である。

五樹と蔵女は健昭と朱音にそれぞれ転生するにいたる――つまり彼らは文字通り五樹と樹里の両親となるのである。五樹と蔵女がなぜあんなにも互いを求めあうのか。蔵女がなぜ樹里と瓜ふたつなのか。それはもはや明白である――蔵女が樹里の母だからである。樹里があれほどまでに五樹を求めるわけも、蔵女の五樹に対する想いを受けついでいるのだから当然だと言わざるをえない。五樹と蔵女から生みだされた五樹と樹里のふたりは、やはり同じように悲劇をくり返すのであろう。そして死んだ五樹はふたたび蔵女と出逢い、やはりまた次の五樹と樹里を生むため彼らの両親に転生する。悲劇は延々くり返されてやむことはないのである。

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和辻哲郎が述べたように、「最も日常的な現象として、日本人は「家」を「うち」として把捉している。家の外の世間が「そと」である。そうしてその「うち」においては“個人の区別は消滅する”」(和辻哲郎『風土』第三章 *二重括弧内は原点では傍点)。簸川家の歴史はすべて五樹と蔵女に司るものであり、両親でさえもが五樹と蔵女“自身”であることから、簸川家では五樹と蔵女の完結した二人関係が「家」そのものを表象してしまう。ここでは健昭、朱音、五樹、樹里といった個人の区別はなんの意味ももたない。和辻が示したような、個人の区別が完全に消滅した日本の「家」を寓意化し、巧みに描いてみせた物語が『腐り姫』なのである。

「私とあなた」の世界はしばしば、ノベルゲームに限らず、様々な作品で描かれているものの、『腐り姫』ほど完成された作品を私はほかに知らない。これほどまでに他者を必要としない関係を描くだけでなく、閉塞的で矛盾に満ちた物語の円環構造が、日本に根づく「うち」の文化の悲劇的性質を際立たせているのである。『腐り姫』の深い洞察はより広い視座から再評価されて然るべきであろう。

 

●前夜の付記

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タイトル画面に「記憶を失う」という項目があり、セーブデータをすべて消して周回プレイをしなければならず(DL版では消えずに残ったままだった)、作中人物とプレイヤーが必然的に同化する仕掛けがある。当時としては斬新な試みであったろう。本作の一年後には『CROSS†CHANNEL』が発表されており、本作と展開が非常に似ていることも、ここであえて指摘しておきたい。ひとりひとりが五樹と関係して“還ってゆく”ところは、発想としてまったく同一であり、とても興味深い符合であると感じた。構成と主題の照応という点から見れば『CROSS†CHANNEL』よりも『腐り姫』のほうが何枚も上手である。ただ物語というのはなにも総合的な評価だけに価値があるわけではない。というのはまた別の話。

音楽や演出、一枚絵の使い方も一級品で、こういうところはLiarだからこそと言うべきなのか。ノベルゲームの可能性を感じさせる工夫は見事であるとしか言いようがない。『Forest』と『フェアリーテイル・レクイエム』は積んでおり、後者についてはそのうちプレイするつもりでいる。『Forest』はJ・L・ゴダールの『ヌーヴェル・ヴァーグ』を想起させる面白いつくりだし、私はイギリス文学が専門なので惹かれる部分も多いが、それ以前に本当にわけがわからなくて途中でやめてしまった(笑)。気まぐれにまた再開するかもしれない。

そんなこんなで名作『腐り姫』の議論は続くわけだが、後夜では「私とあなた」の関係が生みだす矛盾に着目し、五樹と蔵女(樹里)の自己同一性について主題を展開してみたい。奥深い主題を隠しもつ埋もれた名作のひとつとして、自己にはじまり自己に終わる本作の肝要を、自分なりにまとめておくためもう少し紙幅を割くつもりである。

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