ワザリング・ハイツ -annex-

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『腐り姫』を読む 後夜(感想・レビュー)

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前夜の記事では、本作の大きな特徴である閉塞した循環に光を当てて物語を検めた。当然のごとく思い浮かぶひとつの大きな疑問は、ここまでおそろしく閉じた二人関係を突きつめる意義がいったいどこにあるのか、という実に素朴な疑問である。すなわち、同じ営為をくり返すような閉じきった「私とあなた」の関係が生みだされてしまう淵源について、ここでは改めて考えてみたいのである。ここには自己を存立するために自己を破壊するという大きなパラドックスがあり、さらにその自己破壊が別の自己を生成し、そうした反復全体をさらに自己として定義してしまうという、入子構造の壮大な矛盾的自己同一化が見てとれる。

 

●自己破壊=自己生成という絶対矛盾的自己同一

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身勝手に自身の欲望を追求して招いた悲劇が連鎖する――『腐り姫』の根幹にあるのは、「私とあなた」のうちで完結してしまう究極の排他的幸福であり、他者が入りこむ余地のない利己的なふるまいの肯定であった。近親相姦、心中、消失といった、自己を含む関係を崩壊させる行為はすべて、「私とあなた」の絆のために必要な手続きとして受けいれられてしまうのである。

前夜で詳述したように、本作は過去だけに焦点を当てた、現在でさえ満足に描かれない稀有な物語であった。あるいはそれを、過去がすべて――そして未来さえもが――「いまここ」という現在のうちにたたみこまれた、非時間的な物語と言ってもよい。五樹は過去の自分をかき集めたのち自己の縫合に成功するが、その瞬間に時間が意味をもたない存在となってしまい、蔵女を追いかけて非時間的な生を生きることとなる。そして蔵女と再会したのち、未来への道が切り拓かれるのかと思いきや、結局は自分の両親に流転してしまうのである(あるいは消失してしまう)。つまり五樹と蔵女は最後の最後で自己を手放してしまっており、自己の自同性を保持するのでなくむしろそれを斥けて、統合した自己を自ら積極的に滅ぼしてしまう。それはまさに、最期の五樹の言葉通り、「誰の記憶に残ることもなく・・・・・・僕らは・・・・・・ただいなかったことになる」という結末である。

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ここで思いだされるのはあの「ナルキッソスシリーズ」でことさらに強調された“死ぬための自己確立”である――『腐り姫』では“死ぬことによる自己確立”と言ってもよいであろう。五樹と樹里の心中および五樹と蔵女の消失は、彼らの二人関係を結晶化するための選択であり、“消えていなくなる”ことこそがふたりの存在を分かちがたいものとする。互いの自己が意味を成さないところに達してはじめて、ふたりの想いは成就し、互いに自己を確立できるのである。逆説的ではあるものの、自己の消失こそが、ふたりにとっては唯一の自己存立の道であったと言わなければなるまい。

消失を選ぶことで五樹と蔵女は転生し、新たな五樹と樹里を生む。自己を放棄しながらも、その行為が新たに自己を生成するという、西田幾多郎が述べた「絶対矛盾的自己同一」の世界がここには展開されている。絶対矛盾的自己同一においては、「「部分」が「全体」を含むように、自ら破綻を介在させながら、あらたなものを生じさせていく、真に生成する「個物」が、「永遠の今」を生きるものとして語られていく(檜垣立哉西田幾多郎の生命哲学』第六章)。五樹と蔵女はそれぞれ、簸川の家という全体に属する個でありながらも、自分自身の親として自分自身を生みだす“家”そのものでもある。

このように語られる「個物」とは、まさに「行為」する自己のことであるといってもいいだろう。それはまさに「働く物」のことである。そして、こうした「行為」する自己は、そのひとつひとつの働きのなかで、世界(=全体)そのものを「表現」しながら、同時に、そうした自己であることそれ自体において、世界(=全体)をあらたなものとしてつくりあげていくのである(檜垣立哉、前掲書、第五章)。

 

主体が環境を、環境が主体を限定し、作られたものから作るものへという歴史的進展の世界においては、単に与えられたというものはない、与えられたものは作られたものである。与えられたものは作られたものであるということは、環境というものが主体的に摑まれたものということでなければならない(西田幾多郎「行為的直観」)。

自己とは「つくられるもの」でありながらも「つくるもの」であるような、行為的自己と捉えられるべき“働き”である*。自分たちの両親に流転して自分たちを生みだすという営為をくり返すふたりにとって、そのつどの健昭と朱音、あるいは五樹と蔵女(樹里)はすべて五樹と蔵女の不連続の自己そのものであり、そうした反復の営為全体が個々の人物の自己のうちに“喪失した記憶”として埋めこまれているのである。五樹と蔵女はそういった記憶から潜在的に影響を受けながらも、自ら先代と同じ道をたどり続けることで、“喪失した記憶”を延々と増幅しつづける生を生きる。*また五樹と蔵女の自己は、「死や他者をうちに含む「不連続の連続」であり、「弁証法」的な対立という側面から語られる「個物」。それはただちに、自己の破壊を含んであらたなものを生みだしていく「行為的自己」として、まさに「ポイエシス」の主体として描かれるものであるだろう」(檜垣立哉、前掲書、第五章)。

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そのような反復する流転のうちに生きる五樹は、近親相姦(父と娘ないし兄と妹)や心中によって簸川家を内側から破壊しながらも、蔵女とともに流転することで、結局は“簸川家”をつくりだしてしまうのであった。家族という身内の関係を絶ち、樹里や蔵女と一対の男女として「私とあなた」の関係を新たに構築することで、五樹は家の仕組みから脱したように見えなくもない。しかし実際は、二人関係をうち立てて流転することにより、ふたたび“簸川家”をつくりだし、その家の機構に組みこまれてしまうのである。簸川家に属す限り彼らは永久に“家”の宿命から逃れでることができない。

家から脱するための関係が新たに家を生みだし、なおかつそのくり返し全体が彼らの二人関係を存立させる、すなわち自己同一性を保持するという大きな矛盾――家の全体性が個を決定づけるのではなく、個(部分)のほうから家(全体)を形作るという、これはまさに行為的自己の実践を表すものであるが、その実践の生みだす奇妙な矛盾こそが、ふたりの関係の悲劇そのものであるとも言える。個としての自立した自己を存立させようとしながらも、結局のところ家という仕組みのうちに自分を位置づけなければならないという、日本特有の家社会に生きる自己の宿命を、切々と描きだした物語が『腐り姫』なのである。

 

●後夜の付記

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自己の存立を否定する死こそがまさに自己を永遠に存立させ、無限に自己の生成をくり返す円環を生みだすという、矛盾した自己同一性が『腐り姫』の本質であろう。「我とは主語的統一ではなくして、述語的統一でなければならぬ、一つの点ではなくして一つの円でなければならぬ、物ではなく場所でなければならぬ」(「場所」)と西田が表したように、五樹と蔵女の“流転しくり返す”という営為に立脚した在り方が彼らの主体を定義づける。こうした述語的在り方が主語的自己を包摂する論理もまた日本に固有の特徴として方々で議論されている*。*中村雄二郎西田幾多郎Ⅰ』、時枝誠記国語学原論』、木村敏『時間と自己』など。

本論ではあえて言及しないでおいたが、自己を消失させることでふたりの自己同一性を成就させる思考は、まさに民族自決の精神そのものであるとも言える。自決や心中という言葉が日本にあることからもわかるように、私たちの文化には死によって自己同一性を獲得する思想がいまも変わらず貫かれており、本作でも非常に象徴的な形で現れていた。このあたりはきちんと見ていくと思わぬ主題が現れるかもしれない。

腐り姫』は紛うことなき傑作であるが、Liarらしくひっそりと語り継がれてほしいなあ、と勝手に思っている。外からやってくる人間をオープンに受けいれることのできる文化のなかでは決して生まれえない物語である。閉鎖的村社会は日本の陰を表すものだが、その一方で、だからこそ文学が豊かに生まれでる可能性を多く秘めている。これからもひき続き一風変わった日本を感じる物語に注目していきたいと改めて思った夏であった。

⇒『腐り姫』を読む 前夜(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

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