ワザリング・ハイツ -annex-

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“ゆがみ”を読む 第三夜(『あいだ』)

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木村敏の記念碑的作品と見做されるのが本書『あいだ』である。前期と後期の橋渡しのような位置にある著作だと言ってよいかと思う。自己を“関係”として捉え、他者との「あいだ」に自己が成立すると主張する木村の哲学は、人間が誰かとの――あるいはなにかとの――ふれあいから形作られるものであることをいつも思いださせてくれる。

 

●「あいだ」について

本書のはじめに木村は、ヴァイツゼッカーが『ゲシュタルトクライス』のなかで展開した主体に関する議論を紹介しているが、この点に関しては下記の記事で言及したのでここではくり返さない。

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ひと言で述べるならば、私たちは環境の変化に応じてそれ相応の自己をそのつど獲得しなおしている、ということである。それゆえ自己は全体として“不連続の連続”と捉えざるをえなくなる。この連続性がなんらかの弊害により断絶し精神病理が生じるという考え方である。

こういった特性をノエシスノエマの議論などを通して展開したのが本書である。題名の通り「あいだ」に着目した、人間が生きてゆくうえでの様々な関係の在り方について、本書は多角的に論じている。ノエシスノエマについては『自覚の精神病理』を紹介した際に少しふれたが、本書で木村が提示した例がとてもわかりやすいため、ここで再度とりあげてみたい。

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理想的な合奏音楽の場合には、先にも書いたように各演奏者の個別の演奏行為が統合されて、演奏者全員の「あいだ」にある虚の空間に音楽の全体像が結実する。・・・・・・たとえばピアノとヴァイオリンの理想的な二重奏が行われている場面を考えると、ピアニストはピアノのパートを、ヴァイオリニストはヴァイオリンのパートを分担して音を出すことはもちろんなのだが、不思議なことに二人とも、ピアノとヴァイオリンとの音が合わさって一つにまとまった音楽を、自分自身の演奏している音として聴いている(54)。

他者と演奏をするときには、自分のパートを演奏しながらも他者の出す音を注意して聴き、それに合わせ、しかし全体としてはひとつの音楽を奏でるといった複雑な行為が実践される。ここで、出された音をノエマ、演奏行為をノエシスと木村は呼んでいる。自分の出した音がそのあとに続く自分の音ないし演奏に影響を与えるとともに、他者の音や演奏にも影響を与える。逆に他者の音や演奏が自分の音や演奏に影響を与えることもある。さらにはその相互作用は演奏全体にも及ぶ。自分や相手の出す音が演奏全体の質を決定するとともに、その演奏がやはり、続く演奏をまた限定してゆく。こうした「からみあい」すべてがひとつの曲、音楽なのである。木村の挙げた演奏の例が、先述の「不連続の連続」、すなわち自己の在り方と同一であるということは言うまでもない。

演奏者どうしが呼吸を合わせてひとつの音楽を奏でる際、両者は互いに「間をとりながら」息を合わせようとする。積極的に相手に合わせるこの働きこそが、演奏全体を支える大きな基盤となっており、自己を支える主たる働きなのである。断続的な関係ながらも、全体として見れば連続している主体と環境(他者)の「からみあい」において、この「間(ま)」「あいだ」という地平はとりわけ重要視される。そして普通のひとがあまり意識することがない「間」について木村は、アリストテレス西田幾多郎中村雄二郎にふれながら、「共通感覚」として理解しようと試みた。ここで言う「共通感覚」とは、ブランケンブルク『自明性の喪失』において文字通り“自明なもの”として定義した、私と他者の「間」を司る生の前提のようなものである。

たとえば「甘い」という言葉は、味が甘いという意味だけでなく、甘い音色、詰めが甘いなどと、様々な別の感覚についても用いることができる。それぞれは異なった意味を成しながらも、「甘い」という言葉の表す共通した感覚を、特に違和感を覚えることなく私たちは受けいれて過ごしている。こうした「共通感覚」があるからこそ、「不断に変化する外界にそのつど対応して内界を変化」させることができるのであり、それが阻害されてしまうと、私たちは他者や物とうまく関係することができなくなってしまう(104)。

「あいだ」「間」とはすなわち差異のことであり、そういった自分自身との差異や自分と他者との差異こそが、自己を形作るのである。その意味で、のちの木村の著作『分裂病の詩と真実』でキルケゴールが引用されることからもわかるように、「自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係」、つまりは自分がなにかと関係する在り方こそが自己の正体なのである(キルケゴール死に至る病』第一編)。「何かに対して私が何らかの関係を持つというのは、私が生きていることの一局面」であり、対象についてなにかを語るということは、「私がその「もの」をどう見ているかを、つまり私が生きながら私の世界にどう関わり、私の生命的関心に従って世界をどう意味づけているのかを言い表した」行為である(119、150-51)。西田が行為に紐づけて自己を語った伝統を敷衍して、木村もまた、関係する主体として自己を定義づけたのである。

⇒“ゆがみ”を読む 第ニ夜(『時間と自己』) - ワザリング・ハイツ -annex-

⇒“ゆがみ”を読む 第一夜(木村敏『自覚の精神病理』) - ワザリング・ハイツ -annex-

⇒“ゆがみ”を読む 前夜 - ワザリング・ハイツ -annex-