ワザリング・ハイツ -annex-

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『アマツツミ』を読む 響子ルート(感想・レビュー)

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ふと思いたったのが、響子ルートとシュペルヴィエル「海に住む少女」との物語の符号である。この観点からなら響子と鈴夏の物語に大事な価値を見出せるかもしれないと思いふたたびとりあげることにした。もともと鈴夏ルートはほたるルートの前座として、分裂した自己の主題を扱っており、『明日の君と逢うために』の自己が他者化した明日香との符合が見えていた。しかし実際はもう少し複雑な自己についての主題を扱った物語であると言うべきかもしれない。

 

●imaginary being――自己の一部としての他者

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少女は、ある日、四本マストの船アルディ号の船員、スティーンヴォルド出身のシャルル・リエヴァンの思いから生まれました。十二歳の娘を失った船乗りは、航海中のある晩、北緯五十五度、西経三十五度の位置で、死んだ娘のことを、それはそれは強い力で思いました。それが、少女の不運となったのです。(ユール・シュペルヴィエル「海に住む少女」)

自分のなかに眠る他者の姿が完全に実体化してしまうさまを描いたのがシュペルヴィエルの「海に住む少女」であった。生まれてしまった少女は、自分が何者なのか、なぜその島に暮らしているのかもわからず、たったひとりで毎日を生きる。少女にあるのは習慣だけで、程度の差こそあれ、毎日おおよそ同じ行動をくり返すばかりである。彼女に感情はない――より正確に言うならば、たとえ“さびしい”と感じても、それを教えてくれる他者が彼女のまわりにはいないため、そもそも“さびしい”という感情が存在すること自体を少女は知らないのである。

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響子の前に現れた鈴夏は、響子自身のなかに埋めこまれた響子の想いと、響子から見た鈴夏の姿を縫合した存在であり、海に住む少女と同じく、それは本当の鈴夏ではなかった*。つまりは、鈴夏に対する想いを自身の心から切りはなし、響子が恣意的に実体化してしまったのが鈴夏の正体であり、その鈴夏に響子が心を投影しつづけるあまり、彼女は次第に本当の人間のように形作られてゆく。精神病理学的に見れば、投影という適応機制が自身の心の平衡を保ち、あくまで自分のなかだけで鈴夏との関係を解決しようとする、ひどく閉じた心理状態に陥っていると言える。*本当の鈴夏が実は少し混ざっていた、ということがのちに明らかとなるが、彼女が本物の鈴夏とは異なった存在であり、響子の想いによって生まれた事実は変わらない。

想像の存在である鈴夏のために響子は自分の命を捨てようとする。実はそこには、鈴夏に命を助けられたことへの罪悪感があり、「私の命は最初から、鈴夏に借りたものだった」から、「私はこの命を鈴夏に返したい」と彼女は望むようになった。しかしそれが自分本意な理屈であり、残されるひとのことを思いやらない決断であることを、誠は鋭く指摘する。『アマツツミ』の主題のひとつである、ひとりで生きるのではなく他者と関わり生きる姿勢を、誠は示してみせるのである。

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閉じた冬のなかにふたりで生きようとする愛ルートや、自分が生き残るために分化した自己を縛りつけておこうとするほたるルートも然り、利己的な自己の在り方を省みる姿勢は『アマツツミ』全篇を貫くものである。響子ルートでもまた、彼女の利己的な論理が、誠と鈴夏の言葉によって見事に覆されてゆく。そして鈴夏に命を返すのではなく、鈴夏にもらった命だからこそ、自分勝手に捨ててはいけない、と答えをだすにいたるのであった。

「自分だけが助かった」という自分中心の論理から見るか、「相手の分まで懸命に生きる責任がある」と他者との関係の論理から見るかで、“命を助けてもらった”という事実が捉えなおされるのである。内気で友達をつくるのが苦手な響子だからこそ生まれた内側に閉じた利己心は、周囲ともう一度関係しなおす過程のなかで融解し、他者との関係のうちで生まれる豊かな心を、彼女はふたたびとり戻すことができたのである。響子とは対照的な「海に住む少女」の本当の悲劇は、孤独を脱するために関係しなければならない他者が、彼女のそばにひとりもいなかったことにあるのだろう。

sengchang.hatenadiary.com

 

●補遺――“あまつつみ”について

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偶然見つけたのであるが、折口信夫の『古代研究Ⅳ――民俗学篇4』(「古代に於ける言語伝承の推移」)において、「あまつつみ」について書いたくだりがあった。「つみの意味には、穢れ・物忌みにおける、また神が欲しいと思うと神にあげるための、慎みを言う意味もある」、「畢竟、つつしみつみは、そう、意味は変わらぬのである」と述べたあとで、折口は次のように「あまつつみ」を説明する(原文ママ)。

端的に言うならば、あまつつみあめつつしみである。言い換えれば、ながめいみということだと思う。この言葉は、万葉にもあって、雨づつみとも言うている。物忌みは、五月と九月との二度あって、そのうち、五月のが主である。それは、ちょうど霖雨の時だから、これをながめをするといい、さらに略して、ながむと言うた。この慎みの期間は、禁慾生活をせねばならぬのである。(前掲書、原文ママ

物忌みとは、ある期間に日常的な行為を避けて穢れを抑えるためのものであり、肉や野菜などを控えることが一般的であった。“罪を慎む”という点から見れば「罪」と「慎み」は同じ意義をもち、さらにはそれが雨期にあたることから、“雨のおりに罪を慎む”ことがすなわち「あまつつみ」なのだと、折口は指摘する。これが、スサノオノミコトの話、すなわち農耕を侵害する罪と結びついたのちに、現在解されているような「天津罪」の逸話が形作られた、と折口は考えたようである。

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折口の説に拠るならば、本作におけるアマツツミを「穢れ(罪)を抑える慎みの行為」として捉える必要があり、すると物語の意義も大きく変わってくるのではないか。すなわち、行為した先の結果としての罪に焦点化するのではなく、罪となる行為そのものを注視する必要に駆られる。これは物語解釈の力点を大きく変えてしまう切り口となりそうである。

罪をひき起こす行為を踏みとどまる物語として本作を読むならば、言霊を使うかどうかの誠の葛藤がさらに前景化し、鈴夏を想って生きることを“慎む”響子の姿勢が問題となり、近親相姦を犯すか否か逡巡するこころの懊悩や、誠以外を排した世界を斥ける愛の決断も然り、踏みこえないようその場にとどまる“慎み”の物語が見えてくる。これが『アマツツミ』という物語の色を深めるかどうか、その検討にまでここで立入るつもりはないが、言葉にまつわる神話や慣習、あるいは語源を踏まえたうえで、そこにしっかりと立脚した読みを展開するというのは、物語解釈の基本姿勢であると改めて感じた。

 

●付記

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最近になって響子が気になりだしたからなにかと思えばこういうことだったのか。自身の一部としての鈴夏に自己を投影する姿勢から、本当の他者としての鈴夏を想い自己を省みる姿勢への変化が、丁寧に描かれたルートであったと思う。翻ってみれば、響子の抱いていた罪悪感は、鈴夏をつくりだしてしまうほど大きく深刻なものであったことがここからは窺い知れる。それにしても、文学と響きあう主題を多く盛りこんだ物語がノベルゲームには本当に多いのだなあ、とつねづね思う。

現在『アオイトリ』を全裸待機中である。陰と陽の関係をもつ抱きあわせの作品として『アオイトリ』と『アマツツミ』を語ることができればとてもすばらしいと思う。気合いが入りすぎて失敗するのではないかと懸念しているのだけれど、ノベルゲームにおいてはあまり例を見ない試みであるし、おおいに期待して発売を待とうと思う。Purpleさん、ぜひいいものをつくってください。期待しています。

⇒『アマツツミ』を読む(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

⇒『アマツツミ』: CG Commentary - ワザリング・ハイツ -annex-

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