ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『アマツツミ』: CG Commentary

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CG鑑賞記事第二弾。今回は名言の宝庫『アマツツミ』より抜粋。言葉についての物語だけあって言葉の力強さが随所で光る作品である。使いたかったCGがたくさん残っているので、ここで一挙に紹介していきたいと思う。

 

●「他人はもう1人の自分だよ」

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自分が複数いるほたるにとってこれはよりいっそうの真実であった。しかしながら、自己が他者との関わりのなかで形作られてゆくものである以上、他者に自己を映し見るのは当然の手続きであり、自己同一性へのよい見識がここに示されていると言える。他者がいなければ自己もまた文字通り存在しえないのである。自己をいきいきとした「いまここ」にある主体として浮かびあがらせるのは他者の存在にほかならず、その意味で他者は自己の実存的根拠の一端を常に担う。

 

●「事実でもそうでなくても、人の精神や行動の結果は、言葉に繋がっているから」「“言葉”と“言いたいこと”が、ぴたりと重なってるのかもしれません」

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命や魂が言葉と同一であるという主張が『アマツツミ』のひとつの主題でもある。そのため、言霊=言葉を使うことは、自分の命を相手の命に込める行為であり、他者と関係することが自己存立をかけた命懸けの行為であることを再確認させてくれる。この点については記事でも詳しく書いた通りである。

またその一方で、誠の言葉は言表と意味内容が常に一致しており、それは両者に齟齬があると言霊が使えないという便宜によるものであった。だからこそ誠にとっては、言表と意味内容が必ずしも一致しない、比喩表現や言葉のあやを理解するのが難しい。普段から私たちは、言葉そのものがもつイメージと、言葉の表す実際の意味とを、無意識的に把捉しながら自由に言葉を用いているのである。誠と響子のやりとりは、当たり前に用いている私たちの言葉が、いかに複雑に絡みあうものであるのかを思いださせてくれる。

 

●「本当の危険というのは、「普通」にこそ隠れているものです」

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“普通”に潜む狂気を描きだしたのは瀬戸口の『CARNIVAL』『SWANSONG』であり、作中では「網の目のようにはりめぐらされた常識のネットワークに糸口を見いだせず、その外側で静かに崩壊してゆく」人物が描かれた*。村社会の日本ではいまだに、普通からはずれた人間を“ゆがんだ”ひととして斥ける傾向が根強く残っており、多数が善、を前提とした狭隘な文化に美しさを見ようとするきらいがある。*『神樹の館』の拙記事より引用。

ほたるの言葉は、排他的な姿勢を「普通」として受けいれてしまう文化こそ、融通の利かない危険なものであると警告する言葉であった。ゆえに、本作では普通でない事象とそれをとりまく人間が中心に描かれ、ゆがんだ価値を積極的に肯定するさまが描かれた。このようにノベルゲームの原点が垣間見える物語はやはりいいなと私は思う。

 

●「みんなのために自分を守る」

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“君のために”が使い古されたクリシェとなりつつあるなか、自分を大切にすることが相手を大切にすることに結びつく、という言葉を最近よく見るようになった。憶えているものでは『水葬銀貨のイストリア』で玖々里が英士に語った「自分を大切にすることが、あたしを守ることに繋がることを、よーく覚えておけばいいのよ」という言葉。誰かを大切にするということは、少なからず自分を大切にすることを意味するのであり、それを素直に受けとめるのもまた強さなのである。愛ルートの肝要は、他者を守るためにはまず自分を見つめなければならないというものであり、ほとんど他者と通常のコミュニケーションをとってこなかった里の人間だからこそ、他者との関わりの源泉を純粋に見つめた問が出てきたのだとも言えよう。

 

●「日本語じゃない人たちに“言霊”ってそのまま効くのかな?」(おまけ)

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バベルの塔の逸話を思いだすまでもなく、言葉というのは、相手と共有されてこそ意味を成すものである。相手がこちらと同じ言語のルールを理解していなければ、こちらがその言葉にのせたどんな気持ちも伝わりはしない(ウィトゲンシュタイン言語ゲーム)。ここには、「言葉-思い」というものが言語ルールの共有を前提に成りたつものなのか、あるいは言葉にのせたひとの思いは、言語規範に関係なく、別の要素によっても伝わりうるのか(話者の表情、声色等々)という興味深い問題提起が見えてくる。心に残る言葉ではなく、少し気になったのでおまけとして載せておいた。

 

●Appendix

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「一番怖いのは・・・・・・曲がらない人間は“手遅れであることに気づけないこと”だろう」

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「“約束”は、ほたるたち普通の人も使える“言霊”なんだよ」

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「言葉で相手を騙せば、言葉の価値は落ちる」

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「普通の人というのは、やる前から出来ないとか、そんな風にあきらめたり、逃げたりするものなんですよ?」

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「愛の“言霊”を絆だと思って、一緒に生きていく」

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「わたしが好きなあなた自身を、無駄にはしないで」

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「答えを知るために歩いた場所が、やがて道となるのだ」

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⇒『アマツツミ』を読む(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

⇒『アマツツミ』を読む 響子ルート(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-