ワザリング・ハイツ -annex-

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エミリー・ディキンソンを読む(Margaret Homans 註釈)

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エミリー・ブロンテの研究で世話になったマーガレット・ホーマンズ(Margaret Homans)の文献がたまたま眼に入り、そういえばディキンソンについて書いたものが入っていたはずだと読んでみたところ、なかなかおもしろいことが書いてあった。いまの自分の考えていることと併せてひとつまとめておきたい主題であったため、時間をとって検討してみることにした。矛盾を矛盾のまま提示するというディキンソンの詩の特徴は、そのまま西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一の主題と響きあい、万物の本質を捉えた興味深い問題提起となっているように思う。

 

●絶対矛盾的自己同一

ディキンソンはしばしば対偶関係にある要素を対比のように詩のなかに並置する。たとえば次の詩篇では、片方の要素にふれることでそれと対の要素についての深い理解が促されるような、切りはなせないふたつの対象がひき合いに出される。

The Zeroes taught us — Phosphorous —

We learned to like the Fire

By handling Glaciers — when a Boy —

And Tinder – guessed – by power

Of Opposite — to balance Odd —

If White — a Red — must be!

Paralysis — our Primer — dumb —

Unto Vitality!   (J 689)

 

Water is taught by thirst.

Land — by the Oceans passed.

Transport — by throe —

Pease — by its battles told —

Love, by Memorial Mold —

Birds, by the Snow.   (J 135)

対比によってディキンソンは、対偶関係にある要素が互いに必要不可欠な相補的関係にあることを明らかにし、対照的なものがひとつに調和したモデルを提示しつづける。片方が欠ければ、もう片方は存在しえない――平和を知るのは「語られた戦によって」であり、戦争があるからこそ平和という概念が意味をなすのである。

ディキンソンの提示したこのようなモデルはさらに、ひとつの対象がつねに陰と陽の両義性を含みもつという、個のなかにある矛盾を描出するところにまで広がりを見せる。

Satisfaction — is the Agent

Of Satiety —

Want — a quiet Commissary

For Infinity.   (J 1036)

「充足」が「倦厭」を伴うものであり、反対に「欠乏」が「無限」を伴うものであることが語られ、ここでは明らかに、相反するふたつの性質が一体不二のものとして捉えられている。しかしながら、ディキンソンが「充足」と「欠乏」のどちらを非難しどちらを是認しているのか、それをここから判断することは難しい。ホーマンズはこの点をとりあげながら、“The language Dickinson uses to describe her idea of Heaven is often the same as the language she uses to satirize the heaven of orthodoxy”と、ディキンソンは天についてさえもあいまいな態度であり、風刺したり非難する言葉を用いることがあると指摘する(Homans 177)。すなわち、どちらかの要素を非難したり風刺したりする意図をディキンソンがもっていたとすれば、あまりに言葉があいまいであると言わざるをえないのである。

だからこそ“Dickinson works toward undermining the whole concept of oppositeness”と考えざるをえないのだが、実はこれこそが、ディキンソンのあいまいな表現の効果そのものなのであった (Homans 177)。あらゆる対象が内的にもつこのような“矛盾”した性質を、万物の本質的な特徴として提示したのが、ディキンソンの詩の妙味だとホーマンズは分析する。

Nature is what we know —

Yet have no art to say —

So impotent Our Wisdom is

To her Simplicity.   (J 668)

自然は私たちが知るそのままの単純なものでありながら、私たちの叡智がまったくおよばないものでもある。これは明らかな矛盾である。しかし自然とはこのような矛盾した性質を併せもつものであり、それこそが自然の本質なのであろう。これは西田幾多郎が提示した絶対矛盾的自己同一のモデルと同じものであった――自然はその単純さゆえに自然でありながらも、人間の叡智がおよばないという事実によって、その単純さを否定されるものである。しかし自然の単純さも、叡智のおよばない無限も、どちらが欠けても自然は成立しないのであるから、どちらも自然の一要素として認めざるをえない。そういった絶対矛盾的自己同一を自然の本質として捉えたのがディキンソンの慧眼であったと言えるのではないか。

※ホーマンズはこの議論をフェミニズム批評として展開し、ディキンソンが英文学の詩の伝統“male Romantic tradition”の影響を受けながらも、そこに代表されるようなdeterminismには帰せず、先述のような矛盾を描きつづけることで、それを彼女自身の文学の独自性として発展させたと結論づける。この点については特に興味がないのでここでは割愛した。

〈Works Cited〉

Dickinson, Emily. The Complete Poems of Emily Dickinson. Ed. Thomas H. Johnson. New York: Little, Brown and Company, 1961.

Homans, Margaret. Women Writers and Poetic Identity: Dorothy Wordsworth, Emily Brontë and Emily Dickinson. Princeton: Princeton UP, 1980.

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