ワザリング・ハイツ -annex-

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『ナルキッソス0』を読む(感想・レビュー)

f:id:SengChang:20171206013755j:plain7F創設の歴史が語られる本作『ナルキッソス0』。よい意味で期待を裏切るような物語であったと言えるのではないか。当初は「創設の歴史」と聞いて予想される安易な展開を危惧していた私だったが、片岡さんの手にかかるとやはりそんなものは杞憂でしかなく、大切なひとの死を経験してホスピスが創設された、などという凡庸な話ではなかった。言うなればもっと根源的な、7F創設に携わった蒔絵や陽子といった人間の生き方に関わる、切実な願いの物語であった。ナルキッソスシリーズ最後のレビュー。

 

●「待合室」という境界

f:id:SengChang:20171206013750p:plain現在も医師として医療に携わる7Fの創設者蒔絵が、セツミに昔語りをするという、伝統的な語りによって物語は進む。蒔絵の実家は老人ホームであり、彼はその仕事を妹とともに手伝いながら、やがて陽子という体の弱い医者志望の少女と出逢う。蒔絵はもともと医者になろうとしていたわけではなく、陽子が医者になりたいと言っていたから、彼女と同じ道を歩もうと決めたにすぎなかった。しかし陽子は病気がためにその夢をあきらめざるをえなくなり、蒔絵は彼女の夢を受けつぐ形で医師となった。ふたりは事情により離れてしまったが、運命的な再会を果たしたのは病院であり、蒔絵は医師として、陽子は末期の患者として、ふたたび関わりをもつことになる。

本作で前景化する主題のひとつは“境界”であった。境界を象徴する「待合室」としての老人ホームでは――この捉え方は7Fの「待合室」に受けつがれる――患者当人以外は単なる傍観者にすぎず、死にゆく彼らとは深く関わりあうことができない、あるいはそれを互いに望まないという、截然としたちがいがくり返し強調される。「去る者と残される者は相容れない。互いに矛盾した存在であるらしい」。生と死、医療と福祉、去る者と残される者といった様々な境界が、ゆらいだり交わったり分かたれたりする、境界としての場所が蒔絵ホームであり、7Fである。

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f:id:SengChang:20171206013752p:plainそして相容れない二項を分かつ境界が象徴的に表れるのは「ルール」においてである。『ナルキ0』では作中で様々なルールが提示される。それは日常的なものから、恋人間のもの、家族の間のもの、そしてホームのひとたちのものから医療現場のものと、実に多岐にわたるのである。本作における「ルール」には、矛盾する両者の間に明確な線引きをしておく予防的な意味合いがあるものの、たとえば姫子が優花をわざと遠ざけたように、近しい者を傷つけまいとする配慮がそのまま、自分の心の深奥に他者を踏みこませないという拒絶をあらわしてしまうこともある。蒔絵の物語は最後までその矛盾と葛藤しつづける物語であった。

ホームに暮らしていたおりには蒔絵も陽子も厳格にルールを守って生きていた。しかし蒔絵は医師となり、陽子はホスピス患者となり、大人となったふたりがいよいよ死の当事者となったとき、彼らは自分たちが守ってきたルールを果断に踏みこえることを決意する。去る者が残される者を遠ざけるのではなく、あるいは残される者が去る者に関わらないのではなく、境界を越えてでも互いに関わりをもち、干渉しあう姿勢を貫こうとするのである。

蒔絵に対し陽子が、あなたは医者なのか神さまなのか、と問う場面がある。それに対し蒔絵は「医者でも神さまでもなく・・・・・・だが、それ以上の者」という答を返した。むだだとわかっていても踏みこんでゆくのは、医者だからではなく、奇蹟を起こす神さまだからでもない。それを自覚した蒔絵は、自分の病院に国内ではじめてホスピスが設立されることを知ると、陽子とともに計画に携わる決断をするのであった。

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f:id:SengChang:20171206013754p:plain以前にホームで陽子が中心となって実現しようと努めてきた様々なアイディアが、ホスピスで役立つと判断されたこともあり、陽子は一期生の患者として、蒔絵は主任の医師として、ふたりはホスピスの運営に深く携わることになる。7F誕生の瞬間である。そして陽子は自分の死ぬまでの数箇月をすべてホスピス創設のために使う。逃避行の途中で偶然にも生の目的を見出したセツミのように、自分を他者のなかに残したいと望んだスミレのように、あるいは最後まで心を殺してはいけないと気づいた姫子のように、陽子もまた死を前にした葛藤のなかで最期の生き方を見出すのであった。蒔絵と陽子によって境界が“0”となった「待合室」、それが7Fのはじまりだったのである*。これが本作における陽子の生きた証であり、その精神は紆余曲折を経ながらも、後世に脈々と受けつがれてゆくのであった。*しかしやはり境界はそのつど当人たちの間で解消していかねばならないものであり、それを明確にルールとして追加した、姫子の「友達はつくってもいい」という言葉の役割は非常に大きい。彼女の言葉は、「去る者」と「残される者」は関わりあわねばならないという、7F創設の理由そのものであったからだ。

*また、蒔絵の娘である蒔絵素子が、小説版『ナルキ』で阿東とセツミに批判的な視点を加えているのも、『ナルキ0』の蒔絵の立場を踏まえてみると非常におもしろい。素子は物語の最後まで批判的な姿勢を崩さず、7F側の価値を相対化する役割を担ったのだと言える。

 

ナルキッソスシリーズ総括

f:id:SengChang:20171206013747p:plain『ナルキ1』、小説版『ナルキ』、『ナルキ2』、『ナルキスミレ』、『ナルキ0』をすべて俯瞰してみると、いくつかの一貫した主題や視座が見えてくる。それらをどう捉えるべきか、あるいはなぜそれらが大切なのかについては、各レビューにて言及したつもりなので、末尾に付したリンクから各記事を参照していただきたい。ここではあくまで端的に主題の整理をするにとどめておく。

モノローグで言葉を変えてくり返されたのは、死を意識してはじめて生の現実感を得る、という点であった。これは特にスミレや姫子に顕著であったと言える。逆にセツミの場合は、あまりにも長い年月の入退院が原因で、自分の生死に対して著しく鈍くなり、それゆえ阿東との逃避行は生きている実感をとり戻す――あるいは自分が死ぬという現実を受けいれる――ひとつの契機となった。

こうした主題が展開されるにあたってさらに、死ぬための自己確立、あるいは死ぬことによる自己確立という、逆説的な主題が複相的に描かれている。先に言及した陽子のように、死ぬまでに主体的な行動を起こすことで生きた実感が結晶化されるさまが、ナルキッソスシリーズ全体の特徴と言えるのではないかと思う。どのように死を迎えるかではなく、死ぬまでにどう生きるかを大切にする、生き抜くための選択の物語である。そして選択は「残される者」たちにも等しく訪れる。

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f:id:SengChang:20171206013744p:plain当人たちの悔いが残らないようにさせてやることも自分たちの役目だ、という小説版の優花や『ナルキ0』の蒔絵の言葉はとても印象的である。それは老人ホームで、入所者とその家族とに板挟みにされた蒔絵家の葛藤とも響きあう。具合が悪くなっても家族に知らせないでほしいという「去る者」の言い分と、最期にはそばにいてあげたいという「残される者」の想いが、根底を同じくするにもかかわらず軋轢を生んでしまう。「去る者」の願いを前にしてあえてそこに踏みこむのか否か、あるいは踏みこんで彼らの願いを肯定するのか、否定するのか――そういった「残される者」の選択もナルキッソスの物語をつくる重要な要素であったと言えよう。

「去る者」と「残される者」が互いにふれあい、その記憶を受けついでゆく。「去る者」は「残される者」に証を伝え、やがて自らが「去る者」となったあかつきには、また新たな「残される者」に自身の証を伝える。私がこの物語を好きな理由は、あくまでそれを自分のためだと自覚したうえで、そのわがままこそを生の本質として捉えているところである。

☆“誰が為に”

本編中にも何度か出てくる問いですが、

この回答って、一体何なのでしょうか…

きっと人それぞれに回答があって、

恐らくは、その全てが正解なんだと思います。

只、自分の考えとしては「自分」の為だと思っています。

全ては、他の誰でもない、自分自身の為って感じで。

だけど、その自分自身を形づくっているモノは、自分に非ず。

己の中身とは「自分以外」で占められているのでは?って思ってます。

自身の中に在るのは、永遠に生き続ける他の人達。

同じように、他の人の心の中にこそ、

自分自身とゆーモノが在るような気がします。

誰が為にとか、生きた証ってのも、

得てして、そういうもんじゃないかなって思っています。

(『ナルキッソス-SIDE 2nd-』「プロダクト」より)

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f:id:SengChang:20171206013749p:plainナルキッソス」の花言葉は“自己愛”である。しかし本当にそうなのだろうか、と作中では問いなおされており、その問こそが各物語が描きだそうとした本当の問であった。自分自身のためというのが、他者のためになることがある。あるいは他者のためにしたことが自分を豊かにすることがある。自分のわがままが他者の心を形づくることがある。実はそのわがままは別の他者のわがままによって形作られたものであったりする。自分のうちに他者を見て、他者のうちに自分を見る、そんな自己の本質的な在り方をナルキッソスシリーズはひたすらに描きつづけてきた。その主題はあらゆる物語の基層を成すものであり、ナルキッソスの物語がこれから先も長く語りつがれてほしいと私が願う理由でもある。自己についての豊かな問に溢れた本篇の主題が、別の場所でふたたびくり返され、何度も何度も問いなおされることを切に願いながら、私自身も同じ問を問いつづけたいと思う。

 

●付記

f:id:SengChang:20171206013745p:plainナルキッソスシリーズを読み返すと、ある物語でおばあさんの言っていた、いまの若いひとたちは自分で死ぬこともできるなんて贅沢でいいわね、という言葉をいつも思いだす。根底にある想いは同じく、命を絶たずに生きてほしいという願いを言葉に託して、片岡氏は『ナルキッソス』でセツミの自殺を描いた。両者の決定的なちがいはおそらく私たちが思う以上に重要なことなのではないか。自殺の問題を「死を選ぶ」という単相的な選択の問題として見ることはできない。『ナルキッソス』をプレイしたひとはみなが感じたことであろう。

およそ十年近く断続的に追いつづけた「ナルキッソス」の物語もおそらくこれで終わりとなる。なにをどう捉えたらよいかわからなかった十年前の自分と、うれしいことや苦しいことをたくさん経験したいまの自分と、どちらも等しく「ナルキッソス」を評価していることこそが、このシリーズの価値を最もよくあらわした讃辞であると思う。おりにふれて何度も立返りたい作品であるがゆえ、いずれまたふれる機会もあると思う。本記事を読んでナルキッソスシリーズにふれてみたいと思ったひとがひとりでもいたなら幸いである。

⇒『ナルキッソス -スミレ-』を読む(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

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