ワザリング・ハイツ -annex-

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和辻哲郎を読む

f:id:SengChang:20180127134311j:plain日本人論というものを考えたときに和辻哲郎の功績を抜きにして語ることはできないであろう。現在少しずつ自分なりに構築しつつある“日本的特質”についての前提とも言える論拠を、諸方から様々な形で補強してくれる論理基盤が、和辻哲郎の『風土』では数多く展開されていた。その中心的主題をなす「うちの文化」についてここでは簡潔にまとめておきたい。

 

●「家」という“うち”の文化

本来は社会一般を意味する言葉であった「人間」がひとを意味する言葉となった過程にふれつつ、「部分は全体においてのみ可能となるとともに、全体はその部分において全体なのである。我々はすでに古くから、その日常性において、部分に全体を見、部分を全体の名で呼んでいる」と、部分-全体の対偶関係、一体不二の関係を和辻は前提に据えている(『人間の学としての倫理学』第一章)。つまり人間とは、他者や社会との「間」に淵源をもち、自身を社会のなかに映してはじめて見えてくるものであり、「人間の第一の規定は個人にして社会であること、すなわち「間柄」における人であること」なのである(『風土』第三章)。これは木村敏西田幾多郎が主張した「場・あいだ」の論理、関係の主題そのものであると言えよう。

それでは和辻の哲学において「間」の主題はどのように展開されたのか。先のように、和辻が着目したのは個人と社会との関係であり、部分と全体の関係であった。それを最も象徴する日本の文化的特徴が“家”に隠されている。「日本家屋の間取りが、錠前がない引戸だけの“シームレスに”繫がった部屋で構成されたものであることは、しばしば日本固有の風習として指摘されるもの」であり、これは家に属するものに対しいっさいの区別を設けない、つまりは家のなかにあるものはすべてその家の者/物であるという、家族を精神共同体と見做す日本の伝統的価値観に基づく文化風習である(引用は拙記事「『神樹の館』を読む 前夜」より)。

最も日常的な現象として、日本人は「家」を「うち」として把捉している。家の外の世間が「そと」である。そうしてその「うち」においては“個人の区別は消滅する”。妻にとって夫は「うち」「うちの人」「宅」であり、夫にとって妻は「家内」である。家族もまた「うちの者」であって、外の者との区別は顕著であるが内部の区別は無視せられる。すなわち「うち」としてはまさに「距てなき間柄」としての家族の全体性が把捉せられ、それが「そと」なる世間と距てられるのである。(『風土』第三章 *括弧内は原点では傍点

日本語で家族の者を「うち」と形容するのは、このような精神共同体としての家族の性質をよくあらわしたものだと言える。家族の者はみなすべて同じ代名詞で呼ぶことのできる区別なき存在であり、同じ祖先からの歴史を「家」として全体化し、それを個人の「うち」に宿る本質と同一視する。「家」の思想は、その構成員である個人の思想と否応なく同一視され、「家」と個人とが「距てなき結合」として重ねられるのである。ある家の誰かが悪行をなせば、「あの家は・・・・・・」とあしざまに言われる風潮などはまさに、家の構成員がその家を“あらわす”存在であることの顕著な例として、いまなお巷で見られる家社会の現実でもある。日本の「家」において、家族を構成する個々人がそれぞれ「家」を表象する存在であるという前提は、いまもなお我々の文化に埋めこまれたままであると言わざるをえない。

日本において、「家」がここまで強く後世の血縁にも力を及ぼすに至ったわけは、「人間の全体性はまず神として把捉せられた。しかしその神は歴史的なる「家」の全体性としての「祖先神」にほかならなかった」と指摘がある通りであろう(『風土』第三章)。古きものに神が宿る文化を育んだ日本では、自らの“古きもの”である祖先を深く敬い、神格に据えて尊重してきた。そういった慣習は「現在の家族はこの歴史的な「家」を担っているのであり、従って過去未来にわたる「家」の全体性に対し責任を負わねばならぬ」といった慣習を生みだし、「家族の全体性が個々の成員よりも“先である”」前提をつくりだしてきた(『風土』第三章 *括弧内は原点では傍点)。

河合隼雄が指摘したように、あるいは西田幾多郎木村敏も哲学的思索のなかで前提として捉えたように、全体と個が同一のものと見做されうる文化は、日本独自の文化風習のなかだからこそあらわれえた、絶対矛盾的自己同一の世界なのである。相反する要素が互いに矛盾したまま一体不二の関係を体現するものとして日本古来の「家」のシステムは最も理解しやすいモデルのひとつだと言えるのではないか。

 

●付記

和辻の提示した「うちとそと」の文化様相が深く理解できる物語として、本サイトでは以前に『神樹の館』をとりあげた。また、神格として末代まで個人を呪い続ける「家」の伝承を描いた物語として、『AIR』は非常に卓越した物語だったと言えるだろう。さらには日本の風土や建物、そのほかの様々な文化においてあらわれる「奥の思想」については、『霞外籠逗留紀』(あるいは先の『神樹の館』)においてうまく表現されていた。ノベルゲームでは日本的な味を感じることのできる作品が多くあり、現代においてもなお、サブカルチャーの作品群にまでその影響は等しく及んでいると痛感できる。