ワザリング・ハイツ -annex-

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『SNOW』を読む(感想・レビュー)

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『AIR』と同じ」と豪語するひとが、どれほどまともな眼でこの物語を読んだのか見てやろう、というよこしまな動機で手をつけた本作である。結論から言えば、構成面の類似だけでなく、大きな主題に関しても確かに『AIR』に通底する点が多かった。しかし私の『SNOW』への挑戦は実は下記のページに書かれた問題から出発している。

『ASTATINE』「「SNOW」評。」(http://blog.livedoor.jp/april_29/archives/13941278.html

ひと言で言うならば“結び”がちがうというのである。ならばやるしかないではないか、と手をつけてみたところ、なるほどこれは単なる“模倣”で切って捨てることはできない、と思える作品であった。

 

●業因のゆくえ

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『AIR』では往人と観鈴のふたりが過去の業に支配されたまま悲劇に落ちていったが、『SNOW』ではノベルゲームの慣習に則り、各人の結末はルートごとにそれぞれ異なる。特に第三部の物語および主題は決定的であろう――たとえば、澄乃と彼方、桜花は三人一緒ではなく、はなればなれの運命によってのみ幸せを摑みうる。彼方はしぐれや芽依子を選んだ場合にだけ幸福な道に歩みだし、澄乃と桜花と三人で幸せになる運命は用意されていない。前世で犯した彼らの罪が奇蹟によってとかれることはないのである。そしてその罪にふれた周囲の者も否応なく代償を支払わされる。澄乃と彼方が幸福を摑むルートでさえも、桜花は桜花として生きることをゆるされず、別人「さくら」として生まれかわる。芽依子もまた、兄を慕った昔の自分をalter egoとして切りはなし、『明日の君と逢うために』の明日香と同じく、現在の自己を過去のそれとは異なるものとして定立する。

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桜花ルートで彼方が、さくらはさくらであって桜花ではない、とくり返し強調したように、あるいは風仙ではなく芽依子として彼方のそばで生きていきたいと芽依子が声をあげたように、前世の自己を現在の自己とは断絶したものとして捉える実践が本作の貫徹した姿勢であろう。擬似家族を本当の家族として捉え、家の慣習から脱したいわゆる近代的核家族において観鈴が自立した社会的自己を獲得したように、前世の因習を現代の理でなきものとし、あえて過去を切りはなすことが「いま・ここ」を生きる自己の存立に不可欠なものと見做される。過去を乗越える手立てとして両者は同種のものでありながらも、『AIR』は死をもって自己確立の実現をなし、『SNOW』は誰かと生きつづける意志を全面にうちだしてくる。両作品の結びはまったく正反対だと言ってよい。
過去を切りはなす行為が生への意志に変わる物語は実はあまり多くはない。前述の『明日君』では、こうした明日香の生き方に対する鋭い批判が作中に埋めこまれており、あくまで相対性が保持される。また『最終試験くじら』の春香ルートも本作と似た様相を呈するが、これはtrueでは否定される答えでもあり、正面から思いきって描くのが難しい結末なのである。『SNOW』はそこを非常にうまくまとめあげており、その答えに至る必然が丁寧に描かれる語りであった。

 

●「パクり」という言葉の濫用

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分野を問わずここ数年で大きな物議をかもした問題がこれである。一般のひとが「パクり」という言葉を口にするとき、おそらくそこには日本や西洋の文化的伝統や、現在の創作の時流などがいっさい考慮されていない。他作品から題材や枠組を借りた作品、二次創作、あるいは翻案、リメイクといった創作方法は、たとえその根拠が明瞭に示されていなくても「パクリ」とは区別されなければならない。学識のない人間が束になって言葉を濫用することで創作の可能性を著しく狭めてしまう危険がある。これは性的表現を含む創作物に対する無法外な検閲についても言えることであろう。

模倣はオリジナルを越えるというボードリヤールのテーゼや、オリジナルのない模倣というシュルレアリスムの思想などをひき合いに出すまでもなく、芥川は古典に題材をとって多くの作品を書いているし、ノーベル文学賞をとったシェイマス・ヒーニーギリシャ古典文学『アガメムノン』の翻案を著して高い評価を受け、またかのシェイクスピアの作品にはすべて種本があるのだ。そのようにして、新しい作品を通じてかつての傑作をいきいきとよみがえらせるとともに、過去に分かちあわれた問をふたたび現代に投げこむ契機となるのである。

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『SNOW』の大きな功績は、『AIR』の筋をなぞりながらも『AIR』とはまったく異なる第三部の物語を語り、正反対の未来を世に問うたことであろう。『AIR』で出されたある種の冷たい結論を覆す形で、同じ過程を通ってちがう結論にたどりつく、有機的な生の可能性を示した独特の作品だと言える。その美点を捉えきれずに単なる二番煎じと片づけてしまうのは、なんともつまらない物語の読み方であろう。

 

●付記

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テキストはやや稚拙でうんざりするものの、keyで鍛えられた私はあまりうろたえることもなく最後までプレイできた。なんでもないCGの背景がうっとりするほど美しく、熊野の山々も真に迫る迫力で描かれており、これだけで十分な価値がある。当時はかなり画期的であったのではないかと思う。あと芽依子がかわいい。大局的に見ればなかなか楽しめた一作である。

本記事では結びのちがいについて述べたが、作品の質も含めて、むろんどちらがすぐれているといった話ではなく、あくまで生に対するわずかな態度のちがいがあるにすぎない。私自身は、過去というものはそう簡単に切りはなすべきではないと考えている。それゆえ『AIR』で描出されたように、個人を滅してしまう強大な力をもった、命をかけて生涯闘い続けるべきものだと感じる。『SNOW』のようにあっさりと切りはなすのではなく、むしろ過去と死ぬまで泥くさく付きあい続ける生き方こそが、人間らしくて好ましい。

そして模倣を叩く風潮については、素人の浅知恵で低俗な言説が流布しているとしか思えない。たとえば音楽で言うならば、和声を真似てメロディーをほんの少しいじっただけの“まがいもの”の曲は多くあるのに、和声はあまりに専門的すぎるからか素人は誰も指摘しようとしない。しかしデザインのように、ひと眼見てわかるものは、ここぞとばかりに素人が大きな声をあげる。わかりやすいものにばかり飛びつく風潮はこんなところにまで及んでおり、もはや見るに堪えない。なんとかならないものだろうか。

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