ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『時間の闇の中で』を読む(感想・レビュー)

f:id:SengChang:20180222200457p:plain

Ten Minutes Olderというオムニバス形式の連作映画は、様々な映画監督が10分の短篇映画を撮り、それらを短篇集とした束ねた製作企画であった。「イデアの森」と「メビウスの森」の二部から成り、ゴダールが制作した『時間の闇の中で(Dans le noir du temps / In the Darkness of Time)』は前者に属する作品である。ベルトルッチヴェンダースなど錚々たる面々が名を連ね、当時は映画ファンのあいだでかなり大きく話題をさらった。

『時間の闇の中で』はゴダール自身の過去作品や他者の作品、記録フィルムなどからの引用だけでつくられた作品であり、いわゆる本作のためのオリジナルカットはひとつもないのが特徴である。すべて引用という名の編集でつくられた短篇映画だということだ。むろんゴダール特有の文学や哲学からの引用も多分に含まれた、テクストの断片を切り貼りしたコラージュ作品と言えるであろう。

ここでは、下記のページでもとりあげられていた「知の黄昏」についてふれながら、また『映画史』の書籍版からゴダールの言葉を引用しながら、彼の提示した“断片集”とも言える本作について考えてみたい。

『ラッコの映画生活』「10ミニッツ・オールダー ~イデアの森~(4)『時間の闇の中で』ジャン=リュック・ゴダール監督(2002)」https://plaza.rakuten.co.jp/karolkarol/diary/200804070000/

 

●知の黄昏(物語の黄昏)

f:id:SengChang:20180222200505p:plain

ゴダールの姿勢としておもしろいと思うのは、彼が映画を批評として考えているところである。「私にとっては、批評を書くということは映画をつくるということでした」と語るゴダールは、批評とはすなわち相手に耳を傾けさせることだ、と捉える(52)。

人々にわれわれの声に耳を傾けさせるということは、われわれにとっては映画をつくるということでした。・・・・・・私は一度も、映画について語ることと映画をつくることを区別して考えたことがありません。そしてその結果、私は少しも躊躇しないで、自分の映画のなかでほかの映画のことやほかのなにかのことを語ったりするようになったのです。(52)

批評とはまず自分の声を他者に届かせることであるとゴダールは言う。映画のなかで映画について語ることは、小説について小説のなかで語る文学作品ですでに慣習化された手法であったが、ゴダールが映画製作をはじめた50年代はそれが理論として確立されはじめた時代でもあった。そのなかで彼は小説内小説あらため映画内映画を「批評」と捉えたのである。ここを立脚点としてゴダールの物語解体がはじまるのであった。

f:id:SengChang:20180222200459p:plain

f:id:SengChang:20180222200503p:plain

ゴダールの作品に登場するおびただしい数の引用テクストは、映画のなかで浮きあがって見えたり、映画の科白そのもののように感じられたり、引用元の作品の印象を喚起する効果がある。それはテクストどうしの豊かな共鳴を読み手が愉しむということであり、ゴダール作品の一番の特色であると言っても過言ではない。彼の作品にはいわゆる筋書というものがほとんどなく、淡々と積み重ねられる断片をどう捉えるかは、あくまで読み手の感性と思考にゆだねられていると言ってよい。

先述のように『時間の闇の中で』は引用で構成された作品である――しかもそのなかには、作品の引用をする場面の引用、という手の込んだ仕掛けすら見られるのである。たとえば、ゴダールの過去作品『ゴダールリア王』における、ヴァージニア・ウルフの『波』の一節を引用する場面が、本作では「歴史の最後の瞬間(Les dernière minutes l’histoire)」という言葉とともに引用される*。英文学の観点からすると、シェイクスピアの『リア王』とウルフの『波』はしばしば比較されるという批評の背景があり、ゴダールが『ゴダールリア王』で『波』を引用したのはおそらく意図的であろう。さらには引用した『波』の一節は、伝統的に詩人が好んで「不滅」の概念と結びつけたペガススを連想させるくだりであり、それを「歴史の最後の瞬間」としてゴダールは捉えたのであった(Woolf 239; Notes 78)。引用のもたらす意味の複層をどのように解して結びつけるかが、ゴダールの発する「批評」の意義であり、「映画」の役割なのであろう。しかしそれはもはや「物語」とは言いがたいものである。アメリカ人はそれらしく物語を語るのがうまい、と皮肉を言いながら、ゴダールは次のように述べる。* histoireはフランス語で「物語」の意味ももつ。

f:id:SengChang:20180222200502p:plain

映画をつくろうとすると、映画を職業にしている人やそのほかの人たちが《物語を語る》と呼んでいることを強制されるのですが、私はこのことについていつも窮屈な思いをさせられてきました。ゼロから出発して物語の発端を設定し、ついでその物語を結末に導くということをさせられるのです。・・・・・・そこに描かれているのはその人物の断片にすぎないのですが、でも不思議なことに、その断片は、人々にある物語の全体を生きたと思わせるものをもっています。そこにアメリカの連中の力があるのです。(100)

引用にかぎらず、オリジナルの科白や映像を含め、それぞの「テクスト」を有機的に結びつけることで、読み手がゴダールの映画をもとに自分だけのなにかを構築することができる。そういった読み手の働きかけを目指してゴダールの映画はつくられている。だからこそ作者によって決められたある種の一意的な物語をゴダールは製作することがない。筋書は作者がつくるものではなく、読み手自身がつくるものだと言うのである。「あとから、物語なり物語の道筋なり、あるいはまた、いくつかのテーマなりをさがし求める」ことになり「自分を物語からいくらか解放することができます」とゴダールは語り、私たちが「物語」という言葉で呼ぶ営為の前提を根本から覆してしまう(101)。

f:id:SengChang:20180222200500p:plain

f:id:SengChang:20180222200501p:plain

『時間の闇の中で』においてとても印象的な場面は、本を次々とゴミ袋に入れて捨てる「思考の最後の瞬間(Les dernière minutes de la pensées)」であった*。私たちの在る「現在」は様々な過去の集積によってつくられたものである。そういった歴史を記録・記憶として残すのが書籍であるが、それらを参照する必要のないゆき場のない現在が形づくられ、次第に幅を利かせはじめたのがポストモダンの時代である。大きな物語が終焉を迎え、小さな物語が乱立する、ポストモダン的な知/物語の黄昏がはじまり、いまや知/物語は受継がれるべきものではなくなりつつある。過去をいっさい参照しなくとも脈絡のない断片の連なりで小さな物語が成立する時代。本作はそれを逆手にとり、もとの文脈から切りはなされた断片のみの連なりで物語を徹底的に解体しながらも、知/物語の終焉という“物語”をあえて語り、引用によって過去をふたたび浮かびあがらせるという、実に手の込んだ仕掛けを埋めこんだ作品となっている。しかもその“物語”の全体像は読み手が各々定義すべきものであり、私たちのほしい答えは他者からあたえられるのではなく、私たちが自分で見出すほかないのである。* penséesはフランス語で「思想」の意味ももつ。

 

●付記

f:id:SengChang:20180222200504p:plain

中学から映画の魅力にとり憑かれ、大学のときには年に200本は見ていたし、有楽町で開かれるドイツ映画祭やイタリア映画祭にもよく足を運んだ。文学より以前に自分の知情意を養ってくれたものが映画だったように思う。いまはもうあのときのように映画を必要とはしていないが、自分の大きな財産のひとつと言ってよいであろう。

そして高校、大学のときに夢中で観たのがゴダールの作品であった。ほとんど意味のわからなかった高校生の私が、それでもゴダールを貪るように観た一番の理由は、その映像の美しさにある。映像の詩人とはタルコフスキーに使われる形容だが、私にとってはゴダールこそが映像の詩人であった。言葉遊びや引用の妙だけでなく、ここでは紹介できなかったが、映像をつくりあげる技術はいまだに業界随一であろう。私からおすすめしたい作品は『愛の世紀』『カルメンという名の女』『気狂いピエロ』あたりだろうか。それから最新作『さらば、愛の言葉よ』(2014年)はまだ観ていないが、ゴダールの色が発揮された注目すべき作品のようである。早急に買って観なければ。

〈Works Cited〉

ジャン=リュック・ゴダールゴダール映画史Ⅰ』(1982)奥村昭夫訳、筑摩書房、2004.

Woolf, Virginia. The Waves (1931). London: Penguin, 1992.

f:id:SengChang:20180222200458p:plain