ワザリング・ハイツ -annex-

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『飛魂』を読む

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多和田の文学について書いたのはもう五年近くも前になるが、そのときに指摘したのは、言葉のもつ不確かな性質、あいまいさについてであった。それはたとえば、「つくえ」という物体をあらわすとき、「机」と「desk」のどちらの方が“より「つくえ」らしいか”というような問にあらわれる。むろん私たちはこの問に対し答えることはできない。

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答えることができないというところに、言葉のもつあいまいなところがすでにあらわれているであろう。概念をあらわす言葉を見たとき、私たちが抱く所感はそれぞれであるが、同じように具体的な事物をあらわす言葉を眼にしたおりにも――たとえば「机」という言葉を見ても、私たちが頭に思い浮かべる「机」はそれぞれ異なる。言葉による意思伝達はこうした“ずれ”を前提に行われる。多和田はそこに鋭く切りこんだ作家のひとりと言えるのではないか。

『飛魂』という題名からして存在しない言葉であり、当然読み方も決まっていない。しかし「ヒコン」と読むであろうことや、「魂が飛ぶ」という漢字から、おおよその題意を摑もうと手を伸ばすことはできる。『飛魂』では、登場人物の名前をはじめ、読み方が確定されない、つまりは存在しない二字熟語が数多く用いられている。しかしそれらは字面から意味やそのあらわすところが立ちあがってくるものであり、私たちはその前提のもとで、意味について想像をめぐらす自由を与えられている。また実在しない動植物や現象といったものも――ウシカ虫、鳴神、枝叫びなど――なんの説明もなしに次々と登場する。これらについては沼野充義先生があとがきで的確な指摘をしていた。

普通、名詞(意味するもの)は、現実に「意味されるもの」が実在することを前提とし、それを指し示す機能を持つのだが、この場合は、完全に逆である。つまり言葉が先にあって、その名前が喚起するなにかがこの虚構世界に、そして読者の心の中に生まれるのだ。(「解説――魂が飛び、虎が憑き、鬼が云う――多和田葉子の言葉の魔法」)

多和田の造語が物語のなかで意味を成すのは、言葉(ここでは漢字)のもつ歴史的背景があるからであり、その前提に支えられて造語がいきいきと意味を結ぶ、と沼野先生は指摘する。私たちは漢字ひとつについても、確定はされないが同じ漠たる意味の前提を共有しており、その共通感覚をもとに『飛魂』は書かれていると言えるのだ。さらに本作のはらむ不確定性は言葉だけにとどまらず、物語自体も意味のゆれを前景化するものであった。

あらすじがほとんどないに等しい物語ではあるが、「虎の道」を極めるために学校に通う梨水が「虎の書」を聞き、読み、語り、学ぶ過程が様々に描かれる。しかし「虎の道」や「虎の書」とはなんなのか、その目的も意味もなにもあきらかにはならない。むろん彼女たちにもなぜ自分たちが「虎の道」を進むのかがわかってはおらず、師匠である亀鏡もそのことを指し示しはしない。

虎の道と言っても、その原典は全三百六十巻、夜更かしして月の兎影をながめ、徹夜明けて書斎の窓から朝露をながめ、白髪が頭を覆うまで読書に専念しても、読み通すことはできない。それに、一度読んだだけでは意味を表わさない部分が多いので、初めから終りまで通読しても意味がない。人に尋ね、尋ねられ、穴につまずき、落ち、這い上がり、病み、振り返り、思い出し、人と語り合うことによってしか、近づいていくことのできない部分が多いように思う。書物に記された順番は、わたしたちの頭にそれが吸収される順番とは一致しない。人の頭の中はどうやら、本のページや書架のようにはできていないらしい。・・・・・・書物を朗読する時には二行を同時に読むことはできない。行を下から上へ読むこともできない。出来るのは、繰り返し読むことだけである。読んでいるのが自分なのか他人なのか分からなくなるまで、繰り返し読む。

 

わたしは、よく耳を澄まして、紅石や指姫がするように、後でその内容をうまく要約して繰り返してみようとした。しかし、わたしが一度亀鏡の話を飲み込んで、それを自分の言葉で吐き出すと、そこから亀鏡らしさがなくなって、まるでわたしが考え出したことのように聞こえるのだった。しかも、意味が滑り落ちて、別のものになっているのだった。これは、わざとしたことではない。わたしの能力に欠けたところがあるために、そうなってしまったというだけのことである。

言葉を丁寧に拾いながら頭のなかで意味を成し、もう一度読みなおして、さらには先の方まで読んで、あるいは前の方まで戻って、全体をあらため、他者と話しあい、ふたたび読みなおす。そういった作業を延々とくり返す学び舎の彼女たちは、まさに私たちが学問に従事するときの苦闘を体現している。学を修めるとはどういうことか、書に徹するとはいかなるものかが、見事なまでに描かれる。これを文学に向かう学生の物語として読むとき、これほどまでに真に迫る研鑽の様子を描いた作品はほかに類を見ない。彼女たちの先の見えない虎の道の探求は、先に言及したような、有機的に意味を成す造語の数々と同じく、ひとによって異なる意義をもつ。それゆえ虎の書のなにを重視するのかも実に様々である――原典に忠実になる者、原典の思想だけを汲みし原典とはちがった言葉で語ろうとする者、原典を音読することに重きを置く者などである。彼女たちはそれぞれのやり方で書と向きあい、亀鏡の講義を受けながら、虎の道を生きつづける。

虎の道や虎の書が謎に包まれているからこそ、むしろその道に向かう彼女たちの学ぶ姿勢が、私たちの学ぶ姿勢の共通感覚を呼び起こしてくれる。『飛魂』には「正しいこと」がなにひとつとして提示されない。むしろそれが大きくゆらぎ、信頼できなくなったとき、私たちが個々の経験を背景に世界を捉え返し、新たな意味を探ろうとするいきいきとした過程を、巧みにあらわした作品であると言えよう。