ワザリング・ハイツ -annex-

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『水月』を読む 後夜(感想・レビュー)

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水月』がまさか依代の物語だとは知らなかったので、那波ルートを終えたときの充実感はひとしおであった。本作を名作たらしめているのは、作中に撒いた民俗の情報をかき集めるだけでなく、それらの根幹にあったひととひととの関わりの歴史に注視し、語り尽くしたところにあると言ってよいのではないか。信仰や神の伝承とは、やはりあくまで人間についての“物語”なのだと思う。『水月』の帰着点を見てあらためてそう感じた。

 

依代としてのナナミ/那波

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本筋である那波ルートは、太古における七波とナナミの関係が、現代の透矢と那波にひき継がれ、くり返される物語である。那波の物語では、太古と現代のどちらが「いまここ」に開かれた現在なのかを故意にあいまいなものとしながら、どちらも現在の可能性をもった世界として描出された。また、死ぬ直前から記憶をたどり直しているという説も提示し、すべてが“いま”に帰結する閉じられた循環――これは『腐り姫』でもあったものだ――の主題をも喚起する。定位されない時間のなかで語られた物語は、しかし最終的には定位された時間へと収束し、ひとつの現実がゆるがない形で提示されるにいたった。

水月』の時間構造が特異であったのは、むろん、依代として神格に据えられたナナミ/那波の存在がゆえである――那波ルートは、時間の影響を受けない神が、時間のなかを生きる人間に生まれ変わる物語であった。非時間的存在である神としてのナナミ/那波が、時間的存在である人間となる。その変容に伴い、それまで定位されなかった時間が定位され、ひとつの現実を紡ぎだす結末にいたるというわけだ。

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透矢の通う学校には、ナナミと七海の物語について書かれた文献が存在し、透矢がこれを読む場面が前世の七海の夢に出る。そこには七海たちに起こる未来が書かれていたため、それはある種の予知となり、彼らの未来は大きく変化する――ここで七海とナナミの「未来」とは、透矢たちの視点からすればすでに“終わった”世界であるが、七海たちにとっては現在進行形の世界であり、世界五分前仮説も匂わせながら、どちらかを「現実/夢」と決めつけることなく物語は進んでゆく。

だがどちらが現実であるのかはさして重要ではなかろう。那波の言葉を借りるならば、どちらが現実かを決めるのは自分自身なのである。それはすなわち、記憶喪失によって過去を失った透矢が、自ら未来を意志して選びとる、主体性の獲得と自己の構築過程そのものだとも言える。それが七海にも当てはまることは言うまでもない――結果的に七海は、本の記述に反する形で命を落とさず生き延び、ふたたび洞窟のなかでナナミに逢うことができた。七海たちが伝承通りの歩みにいたらないことで、過去として語られてきた七海たちの物語が、必ずしも過去であるとは断定できなくなってしまう。『水月』はそんな仕組みをもった物語であった。

そして極めつけに那波が「すべては現在という瞬間から始まっています」と明言する――「過去が自分より後ろ、ではありません…現在以外の事象はすべて、未だ来ぬ時」であり、西田幾多郎「永遠の今」をひきあいにだすまでもなく、『水月』の物語は過去と未来がすべて現在にたたみ込まれた時間を語る。さらにこの物語の美しいところは、こうした思想が他者の存在の意義と結びつくところであった。

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ナナミは透矢に「求められることで、人は存在することができます」と語る。ひとはだれもが他者に求められることで“自分自身”となる。それに対し那波は、あくまで「人の母の代わり、として存在している。元より巫女で、明確な自我がない」、いわゆる“いれもの”にすぎず、神の宿る依代や魂を降ろす器でしかなかった。だからこそ那波は、まるでひとの感情をもたないような、どこか浮世離れした人間として生きていたのである。だれからも求められず、この世に存在しえなかった那波が、透矢に求められることではじめて命を吹込まれ、文字通りこの世に生を受ける物語、それが那波の物語であった。魂を授かることで那波は普通の人間となり、「永遠の今」から脱して、「限りある今」を生きる幸福を摑んだ。

いわゆる「もの」に魂を見る思想は、日本ではとみに根づいた考え方であり、だからこそ私たちは依代に魂が宿るさまに強く共振するのだと言えよう。前夜でもふれた『神樹の館』もまた依代の物語であったが、「器」として人間に利用されてきた那波が、神格を捨てて人間のあたたかみを獲得する過程は、やはり強く心をうつ。私がいたく感動したのは、これが那波の自己確立の物語だからなのであろう。

 

●付記

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『AIR』『腐り姫』でも描かれたように、ひと非ざるもの、あるいは神に類するものを、日本は人間的に描いてきた神話の歴史があり、ひとを超越したものとして描く西洋の神話とは大きなちがいを感じる。「土着」という言葉がよくあらわしているように、まさに当該の土地に住む人々の生活に根差した、ひとであり神であるようなあいまいな存在、それが日本における神の位置づけなのではないか。

本作には眼をみはる美しい場面が多くあったが、ひときわすばらしいと思ったのは、透矢が浜辺で雪と風船を見送るくだりであった。雪についてなにも書けなかったのは惜しくてならない。しかしながら本作で最も重要な人物のひとりである。いろんな意味で。多くは語るまい。

水月』について扱ったサイトでは、みな口をそろえて意味がわからないだのなんだの言っているが、そもそもすべての辻褄を合わせて「わかった」と言えてしまう物語ほど浅いものはない。そんなつまらない物語よりもよほどなまなましく、また私たちの現実に近い不可思議が横溢した、よい物語であったと思う。今後もこんなすばらしい作品に出逢えることを楽しみにしている。

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