ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『水葬銀貨のイストリア』: CG Commentary II

f:id:SengChang:20180329141256p:plain

『イストリア』のCG Commentary第二弾。前記事の続き。『紙の上の魔法使い』も含め、ルクルのシナリオは次々と厚く塗り重ねてゆくような物語であるため、人物それぞれの経験に裏づけられた言葉の重みも魅力のひとつと言える。そういった言葉は、たとえ物語の文脈から切りとってとりだしたとしても、ひとの心に訴えかける力をもつものである。

 

●「一度壊れたものを繫ぎ合わせると、歪なものが出来上がる」

f:id:SengChang:20180329141251p:plain

事故後の小夜は、いわゆる役割同一性に嵌まりこんだいびつな自己を身にまとい、さらに人魚の涙によって真の自己を切りはなしてしまった。小夜の自己は征士によって恣意的にすり込まれたものであり、一度壊れた自己を、他者の先導の下で“適切に”つぎはぎしたものであった――なにかから眼をそらすために、あるいは背負いきれないものを背負ってしまったがために、あったはずのものをなかったことにしたうえで、“成りたってしまった”自己だったのである。玖々里の感じた小夜の「気持ち悪さ」は実はそういった背景によるものでもあった。

f:id:SengChang:20180329141554p:plain

だからといって、あのときの恐怖と無理に向きあうことが小夜のためになるのか、英士たちは頭を悩ませ逡巡するのであった。「恐怖を恐怖として怯え続けるのか、恐怖を恐怖として判断できないでいるのか、どちらが幸せなのでしょうね」と玖々里が述べたように、離人感覚やfalse-self systemの改善が、本当に彼女に益をもたらすのかという、精神病理学的な問いかけがここにあらわれてくる。私たちは少なからず、心の負担となるものから眼をそむけて生きているが、それをどこまで許容すべきなのかという、非常に繊細な問題が『イストリア』では扱われたのであった。

 

●「その気持ちを我慢しないことが、倫理を守ることよりも大事だったというだけかな」

f:id:SengChang:20180329141252p:plain

道徳や倫理といった価値観は実際の行動を通じて形づくられるものであり、よそから借りてきた価値観が自分の行動を形づくるのでは、本末転倒であるという論理。常識や慣習的な規範の問題点を突く主張である。こうした社会の常識がひとを排斥する社会の現実は『CARNIVAL』『SWANSONG』といった作品でよく描かれており、『イストリア』でもまた、常識に真正面から疑義を投げかけようとする言葉が随所に散見された。正義についての一連の問答もそのひとつであると言えよう。

前述のように、結局は自身の主体的な行動こそが、周囲を納得させるような“正しい”価値として見做されうる。大切なのは最後まで考え抜くことであり、その結果としての行動がいかなるものであろうとも、当事者でない他者が口を差挟むことではない。どんな論理であっても覆されてしまうのであれば、正義の在り方はそのようにしかありえない、という結論が『イストリア』の肝要であったと思う。

 

●「あのとき、何を選んだか。全てはその積み重ねで、今を成している」

f:id:SengChang:20180329141257p:plain

前作『紙まほ』では、たとえどんな自己であってもすべては不連続の連続だという、歴史的自己の実存が滔々と語られた。本作『イストリア』は「選択」に主眼を置き、それが現在の自己を形づくるという視点をとる。人魚の涙による命の蘇生や性質の変革、そういった自己の断絶を間に挟みながらも、やはりすべてが歴史的自己の一部として包摂されるという、西田幾多郎の思想を彷彿とさせる洞察が垣間見えた。

私が考える故に私があるのではなく、私が行為するが故に私があるのである。考える故に私があると考えられるならば、考えるということが既に行為の意義を有する故でなければならぬ。而して行為的自己と考えられるものは社会的・歴史的でなければならない。社会的・歴史的限定として私と汝というものが考えられるのである。(西田幾多郎「行為的自己の立場」)

 

●「本物であることに、意味はない」

f:id:SengChang:20180329141259p:plain

紫子がゆるぎに告げる「自らの正しさを知っているお前が憎い」という言葉は、自分にとっての正しさだけを追い求めたのち、最後までその正しさを貫き通すことができなかった、否定的な結末を象徴するものである。紫子の主張する正しさは英士と同じものでありながらも、切り捨てるものをたがえたゆえに、ふたりはまったく対照的な結末を迎えるのであった。しかしどちらが「正しい」のかは、あるいは紫子の生き方に「正しい」選択肢などあったのかどうかは、とても答えの出るような議論ではないであろう。

f:id:SengChang:20180329141300p:plain

『イストリア』は正しさについての物語であると同時に偽りについての物語でもあった。紅葉が紫子に隠し通したこと、あるいは英士が小夜に隠し通したことなど、「真実を伝えることだけが、優しさではない」のであり、「上辺だけでも、偽善だとしても、人を救うことは出来る」のである。真偽に答えを出すのではなく、問い続けながら生きる必要性を説いたところが、この物語の力の源であったと思う。そうした生き方を選択する覚悟はまさに、木村敏の言う「主体性」と呼ぶべきものであろう。

f:id:SengChang:20180329141258p:plain

f:id:SengChang:20180329141302p:plain

 

●Appendix

f:id:SengChang:20180329141301p:plain

f:id:SengChang:20180329141253p:plain

f:id:SengChang:20180329141254p:plain

f:id:SengChang:20180329141255p:plain

f:id:SengChang:20180329141250p:plain

⇒『水葬銀貨のイストリア』: CG Commentary I - ワザリング・ハイツ -annex-

⇒『水葬銀貨のイストリア』を読む 前夜(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

⇒『水葬銀貨のイストリア』を読む 後夜(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-