ワザリング・ハイツ -annex-

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日本語の代名詞を読む

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よそで書いたエッセイなのだが、そろそろ時効だと思うので掲載してもよいかと。代名詞と文化現象の関係を一度まとめておきたいと思い、和辻の哲学から着想を得て、三浦つとむ大野晋の理論基盤を基軸としてまとめた言語論考。言語学の先生に査読をしてもらっているので、見当ちがいのことは言っていないと思われる。思考の糸口となればこれ幸い。

 

●“あいだ”をあらわす代名詞
日本語には話し手と聞き手の関係が言語現象そのものにあらわれるという特徴がある。私たちが敬語や謙譲語を用いる場合、それらは自分と相手との関係をあらわす記号のようなものになりうる。すなわち話し手と聞き手の関係によって代名詞や呼称の選択が規則づけられるのである。三浦つとむのとりあげた次の例文はそのことをよくあらわしたものだと言えよう。

1. お母さんはおつかいにでかけるわよ。

2. きさまにはお父さんのこの苦しみがわからぬのか。(三浦 1976: 139)

1の例文では、母親が子供の気持ちのまま話すために、子供が使う名詞である「お母さん」を意図的に用いて話しかけている。「お母さん」「お父さん」という呼称は、話し手と聞き手の関係をあらわすものであると同時に、子供が両親に対して抱く親愛感をあらわすものでもある。それゆえ、子供が「いまの親愛感をもったまま追体験できるように、母親は進んで子どもと同じ気もちになり、子どものことばを借りて対象化された自分を表現した」と言えるのである(三浦 1976: 140)。同じような理由で2の例文でも、父親が「お父さん」という代名詞を用いることで、子供が子供の気持ちのまま父親に言われたことを追体験できるため、「言葉によるしつけ」が実現しうると考えられる(三浦 1976: 140)。上記の言語現象についての三浦の指摘はすなわち、話し手と聞き手との間にある隔たりをどのように扱うべきかを示したものであり、ひいては両者の関係によって呼称の選択が行われたことを意味するものであった。実は関係によって左右されるこのような言語の選択こそ、文化や歴史によって変化してきた日本語の顕著な特色にほかならない。

呼称や代名詞によって自分と相手との関係が見えてくる現象は、日本語の特徴というよりも、日本人に固有の性質が言語にそうした特徴を与えたのだと言うほうが正確であろう。大野晋によれば、「汝」を意味する「な」は以前、「己」という字を当てられて一人称の代名詞として使われていたのだという(大野 1978: 78-79)。

これは日本人の言葉が、概していえばウチなる「我」と「汝」との間だけでしか使われてこなかったことと関連する。一人称・二人称・三人称という平等な三極があるのではなくて、ウチなる馴れ合える間柄で主として言葉が使われたから、そこでは自分と相手とのへだたりをいかに扱うかに大きな関心が払われる。(中略)相手が自分で自分を呼ぶ称を、そのまま模倣して相手を呼ぶ名とする。これは自分の行為の相手が本当に自己に対立する存在だととらえられていない結果である(大野 1978: 79)。

自分と相手を截然と区別して相手を自分の外に置くのではなく、「「我」と「汝」とは基本的に共同の場で生きており、同じ感覚をもって事態に対処してゆくウチなる存在ととらえる」(大野 1978: 77)。このような日本人の性格を踏まえるならば、一人称の代名詞「な」がやがて二人称の代名詞として使われるようになったのも自然なことであると言える。なぜなら、もともと日本人には、同じ精神共同体に属する「我」と「汝」とを区別せずに捉える、つまりは同じ集団を代表する成員としてひとりひとりを区別なく同一視する文化が根づいていたからにほかならない。それが日本の「家」の習俗である。

和辻哲郎の指摘するように、「「家」は家族の全体性を意味する」ものであり、「過去未来にわたる「家」の全体性に対し責任を負わねばならぬ」のが、歴史的に「家」を神格に据えてきた日本の大きな特徴である(和辻 1979: 210)。責任を負うとはつまり、家族の成員ひとりひとりがその家系を代表するとともに、ひとつにまとまった「うち」として捉えられる宿命をひき受けることでもある。こうした「家」の全体性と各成員との関係は「うち」という代名詞の使用例を見ることでより深く理解できるだろう。

最も日常的な現象として、日本人は「家」を「うち」として把捉している。家の外の世間が「そと」である。そうしてその「うち」においては個人の区別は消滅する。妻にとって夫は「うち」「うちの人」「宅」であり、夫にとって妻は「家内」である。家族もまた「うちの者」であって、外の者との区別は顕著であるが内部の区別は無視せられる。すなわち「うち」としてはまさに「距てなき間柄」としての家族の全体性が把捉せられ、それが「そと」なる世間と距てられるのである。(和辻 1979: 214)

「うち」という代名詞は自分自身を指すこともあり、上記のようにほかの家族のだれかを指すこともあれば、家族全体ないし一族全体を指すこともあれば、自分たち家族が住む建物そのものを指すこともある。このような「うち」という代名詞の扱いには、個人とその者の属する家とが同一視されるという、「家」に象徴される日本の矛盾した自己同一性がよくあらわれている。「「わたし/わたしたち」「(わたしの)家」「(わたしの)内側世界=所属集団」という三概念が同一の言葉で示され」、「この同一性は、一方で、主体確定の弱さに、他方で、主体を位置づける社会的な場所(集団)と物理的な場所(家)の間の密接な対応関係に、つながる」とオギュスタン・ベルクが述べたような、自立的自己があくまで社会的自己と同義であり、そこを離れては自己同一性を獲得できないという、日本社会における自己の本質的な問題をはらむものだとも言えよう(ベルク 1985: 214)。ゆえに家族間では「私」という存在が滅却され、「彼」や「彼女」、「彼ら」にもなり、当然「我々」ともなりうる。個々の成員を同一視することで、家族の「そと」の人間たちと自分たちを明白に区別し、自分たちがひとつの「家」に属する「我々」であることを強調するのである。「うち」側からだけでなく「そと」側からもまた、個人は単なる個人ではなく、あくまでなんらかの集団の成員として認識され、個人と集団が不可分の同一体と見做されるのである。

以上のように、言語の具体的な運用例を見てゆくことで、日本語がいかに日本の習俗に影響を受けて変容してきたのかがよくわかる。日本語の代名詞や呼称は、単に相手を呼ぶためのものではなく、自分と相手の関係をもあらわしてしまうものであり、その使用法が日本の歴史的背景をはっきり映したものとなっている点は注目に値するであろう。

 

〈引用文献〉

大野晋『日本語の文法を考える』(1978年)岩波新書、2015年

ベルク, オギュスタン『空間の日本文化』(1985年)ちくま学芸文庫、2007年

三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(1976年)講談社学術文庫、2012年

和辻哲郎『風土』(1979年)岩波文庫、2013年