ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

シルヴィア・プラスを読む

f:id:SengChang:20180527111801j:plainプラスについて書きたいことが出てきたのでまとめておく。大学時代に卒業論文をプラスで書いた私だが、その頃はプラスの文学よりも先に英語と闘わねばならず、文献もろくにあされなかった苦い思い出がある。ゆえにプラスの海外文献については手持ちのものがほとんどなく、現在であればもっと豊かに読めるはずと思っているが、手をつけていないのは自身の怠惰の至りである。ひとまずはテクストに寄りそう形で端書きを残しておこうと思う。

 

●石化した自己

Tulips”にあらわれる石のイメージは鮮烈である。なにもかもが白い病院や、いっさいの患者を区別せずに石のごとく扱う看護師や医者を前に、「私」は自分自身を失い、いっさいの感覚を絶たれた“無”と化する。

The tulips are too excitable, it is winter here.

Look how white everything is, how quiet, how snowed-in.   

I am learning peacefulness, lying by myself quietly

As the light lies on these white walls, this bed, these hands.

I am nobody; I have nothing to do with explosions.

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My body is a pebble to them, they tend it as water

Tends to the pebbles it must run over, smoothing them gently.

They bring me numbness in their bright needles, they bring me sleep.

ひどく疲れて自分を見失っていた「私」は、医者たちがもたらしてくれる眠りを甘受し、なにをされても無感覚の「石」となることを受入れた。他者と区別のつかない石のように扱われ、無感覚の眠りに落ちて文字通り石化した「私」は、いっさいのあたたかさを拒絶する真白な冬のなかに閉じ込められてしまう。

苦悶から解き放たれるために無を望むさまは、『ベル・ジャー』をはじめ、プラス作品ではあらゆるところで見受けられるが、無に帰したかに思えた「私」は必ずこの世界に戻ってきてしまう。一度死を経験したあとに戻ってきた「私」と対面し、それを自分自身として受入れることの難しさは『ベル・ジャー』の著名な一幕によくあらわれている。

At first I didn’t see what the trouble was. It wasn’t a mirror at all, but a picture.

You couldn’t tell whether the person in the picture was a man or a woman, because their hair was shaved off and sprouted in bristly chicken-feather tufts all over their head. ……

The most startling thing about the face was its supernatural conglomeration of bright colours.

I smiled.

The mouth in the mirror cracked into a grin.

自殺未遂ののちにはじめて自分の姿を見たエスターは、それが鏡に映った自分の姿であることに気づかず、絵かなにかだと勘違いしてしまうのである。彼女は自身の歴史的自己に対し違和感をもち続けてきたが、それが昏睡状態という断絶を経て、救いがたく表出してしまう一場面であった。無から戻ってきてしまった際の、否応なく心身が変革される自己崩壊は、いわゆる未来を目指した再生をもたらすことがない。再生は救済にはなりえず、プラスの作品においてはむしろ、過去と現在の自己に決定的な断絶をもたらす自己同一性の崩壊として捉えられてしまう。

“This is the city where men are mended. / I lie on a great anvil.”とはじまる“Stones”では、さらになまなましく“自己の再生”が描出される。 

The food tubes embrace me. Sponges kiss my lichens away.

The jewelmaster drives his chisel to pry

Open one stone eye.

 

This is the after-hell: I see the light.

A wind unstoppers the chamber

Of the ear, old worrier.

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Ten fingers shape a bowl for shadows.

My mendings itch. There is nothing to do.

I shall be good as new.

描かれているのは人間を修理する工場であり、ここで留意しなくてはならないのは、語り手が“修理されるべき”対象であるという点であろう。工場で修理される語り手は、自分自身について「新品のようによくなるだろう」と述べ、過去の自分を忌避すべきものとして捉えているように思われる。新品とはつまり、自己の歴史をぬぐい去って白紙の自己に戻ることにほかならず、現在の自己から過去をすべて切りはなすことを意味する。恐ろしいことに、ここでは出自も、他者との関わりも、自己の歴史がすべて否定されてしまっている。こうした人間をプラスは「石たち(Stones)」と呼び、断絶した自己を石化(Petrification)した自己として捉えた。

過去の自己を「他者」として否認するさまは“In Plaster”でも散見される特徴であり、プラスの諸作品に見られる特徴だと言える。また彼女自身がThe Magic Mirror: A Study of the Double in Two of Dostoevski’s Novelsという表題で卒業論文を書いていることからも明らかなように、プラスにとって断絶した自己の主題は切実なものであったと推察できよう*。過去の自分と現在の私の同一性を認めることができず、現在の自己を正当化するために過去の自己を否定してしまうならば、結局のところ現在の自己もまた崩壊してしまう――のちに新たな過去の自己として切り捨てられてしまう――はずである。そのような無限後退の地獄を描きつづけ、ついに抜けでることのできなかった作家が、シルヴィア・プラスという作家なのだろうと思う。*ドストエフスキーの『二重人格』では題名の通りドッペルゲンガーが扱われているが、『カラマーゾフの兄弟』でもイワンが分身と対話する場面があり、ドストエフスキーのdoubleの主題はかなりおもしろいものだと感じる。

⇒シルヴィア・プラス『ベル・ジャー』 - ワザリング・ハイツ -annex-