ワザリング・ハイツ -annex-

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『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』を読む(感想・レビュー)

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マクロスシリーズがおもしろいのは、戦わないために戦う物語だからではないか。戦わないために歌という“文化”が用いられ、常識の異なる種族どうしが意思伝達をするための手段として生きてくる。私はロボットものになんの興味もないため、『マクロスF』と初代マクロスくらいしか観ていないが、少なくともこの二作で投げかけられた社会における文化の在り方については、ひどく感銘を受けたと言っておきたい。本記事は初代マクロスの劇場版『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』(1984年)のレビューである。

 

●異文化交流による脱文化

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マクロス船で暮らす人類がゼントラーディという未知の異星人と戦うものの、実は彼らは人類と同じ血を分かつ存在であった、というのが本作の物語の前提である。かつて高い遺伝子工学の技術をもって繁栄したプロトカルチャーという種族は、その技術によって男女を別々に生成するようになり、互いに争いはじめ、戦闘人間としてのゼントラーディを生みだした。その過程で地球に立ち寄ったプロトカルチャーが人間の祖先を生成したとされており、人間とゼントラーディはともにプロトカルチャーの技術によって生成された人工的な生命体である。ゼントラーディは文化については教育されておらず、また異性を危険なものとして認識しており、戦うことだけをインプットされていた。彼らは現代に至ってもなお男女で戦争を続けているが、そんな彼らが約50万年の時を越えてふたたび出逢ったのが人類のもつ“文化”だったのである。

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文化についてゼントラーディは、戦闘以外の創造的行為を指すものだと語り、歌は男と女をひき寄せ自分たちの戦意を奪う危険なものだと捉える。文化に手をふれてはいけないと教育されてきた彼らは、しかしながら自分たちの想像を超える驚くべきものに出遭ったとき、「デカルチャー!(deculture)」と叫ぶのである――ゼントラーディは自分たちの常識が文化によってdecultureされていることにすら気づかない。言うなれば、自分たちが本当はすでに“文化”をもっていることにすら気づいていない。文化について教育されていないがゆえ、彼らは文化について体系的に捉える常識をもたない。さらにまた、それが人類側のdecultureをひき起こすというのも大きな皮肉と言わざるをえない。

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ここで興味深かったのは、自文化が異文化によってdecultureされるのではなく、自分たちの過去の文化によって現代の文化がdecultureされる点であろう。実際に、ミンメイが歌う「愛・おぼえていますか」という曲は、プロトカルチャー時代の流行歌であり、人類とゼントラーディに共通する太古の“文化”であった。人類とゼントラーディは長い年月を経て自分たちの過去の文化を目の当たりにし、彼らの現代文化を司る“歌”によって現代の文化がdecultureされる。本作は実のところ、過去の文化から現代の文化をあらためて創造するという温故知新の物語なのである。

ゆえに「私たちにも文化が戻ってくるのか?」というゼントラーディの問いかけは、文化的知見をふたたびとり戻せるのかという彼らの真摯な問いかけであり、戦争のための自分たちの技術を彼らは文化と見做すことがない。翻ってみるならば、なにを文化と見做すべきか、というマクロスシリーズ全体の主題がここに浮かびあがってくる。マクロスは文化の代表として「歌」を作品の中心に掲げ、文化はひととひととを結びつけるものでなければならないと“歌って”みせたのであった。

 

●付記

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自分のゆずれないものを守り貫きながら恋に敗れる人間の物語はいい。ミンメイは大切なひとのために歌を捨てようとするが、結果的に自分が歌いつづけることで大切なひとを守ることができると気づき、ふたたびひとりマイクをとる。恋も夢もかなう、などという物語は非現実的で手ぬるい。マクロスシリーズでの三角関係は、つねに大切なひとの生死がかかった選択の物語であり、私はそういう容赦ない悲劇的な物語に弱い。その意味でも本シリーズは少女漫画的だなと思うことがよくある。

マクロスΔ』を観るかどうかはわからないが、評判がいいのでそのうち観てみようかとも思っている。『マクロスF』の劇場版なども、ちょっとびっくりするくらい洗練された出来であるが、物語としての趣と深い感動という意味では、今回とりあげた劇場版に勝るものはないのではないか。

また、今回あらためて感じたのは、やはり自分は80年代のシティポップが魂のふるさとなんだ、ということである。余談もはなはだしいけれど。

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