ワザリング・ハイツ -annex-

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円城塔「松ノ枝の記」を読む

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数理分野の研究者でもあった円城は、論文に書けなかったものを小説として膨らませて作品を書くのだという。確かに彼の冗長な文章を追いかけていると、ある事象についての円城自身の仮説を読んでいるかのような印象を抱く。「松ノ枝の記」では、自分の思考を別の人間が司っているという話が出てくるが――これは『最果てのイマ』におけるイマそのものである――これも円城のおもしろい仮説の一部と読める書き方であった。円城の小説については、彼自身が作品のなかで語った次の言葉が、もっとも当を得た表現なのではないかと私は思う。

完成品を仕上げるためではなくて、途中の品をつくるために仕事をしている気分になってきて、実際その通りであったりする。途中で書きやめられた文字。文章。その総体が、わたしのつくり続けているものだから、わたしの仕事は終わらない。終わりようがありはしない。

円城の小説は断片の連なりによって有機的に意味を生成するポストモダン小説であり、専門的な仮説の展開と不揃いな主題の乱立から、各所の意義を捉えつつ全体を捉え返す読みを拒む特徴がある。円城の言葉通り、作品としての総体を目指して書かれてはいるものの、各々の部分が全体を問わずに自律しており、切り離しても十分に“生きる”パッセージが多く見られる。こういった作品が果たして小説と呼ばれてよいのか、という問いかけはあって然るべきだが、円城自身も作品を通じて小説という題材を扱い、様々な問を投げかけていることは言うまでもない。

たとえば「道化師の蝶」に出てくる友幸友幸なる架空の作家が書いた小説は、いまはほとんど使われることのない、しかも数学者が文法に修正を加えたラテン語で書かれており、そもそも言葉遣いが正しいのかどうかすらだれにもわからないのだという。それを訳した本が出版されたが、むろん訳者も完全な訳にすることはできるはずもない*。正しく理解できるひとのいない言葉を翻訳したがゆえ、自分の訳が正しいのかどうか判断できるひとがおらず、もはや翻訳版は訳者の創作と言っても過言ではない。*ここにはもうひとつ、言語を本当に理解するとはどういうことか、という重要な問も隠されている。母語でさえ意味の通らない文に出会すことは多いものの、だからといって私たちは母語が“わからない”わけではない。では言語が“わからない”と“わかる”とのちがいはどこで判断されるのか。円城が作中で匂わせるこの問の意義はとても大きい。

またこれは「松ノ枝の記」にもひき継がれる主題であった。本篇で扱われる『松ノ枝の記』という書物は、「彼」が書いた小説を「わたし」が訳し、それをさらに「彼」が訳しなおした小説である。「わたし」の訳した小説も「彼」の訳しなおした小説も、どちらもある種の創作であり、独自の作品として捉えられている。そのほかにも、「わたし」が書いた小説の翻訳版だと偽り、存在しない書物の翻訳を「彼」が出版したり、「彼」の作品の翻訳を「わたし」自身のオリジナル作品と偽って出版したりと、両者はねじけた関係をもちながら互いに作品を発表しつづける。ここではもはや、どちらがオリジナルであるとか、どちらが翻訳であるとか、そういった区別はまったく意味をなさない。言うまでもなくここには、模倣・複製がオリジナルを越えてゆくシミュラークルの問題があり、翻訳の問題と結びついて奥の深い謎かけを展開する。

「道化師の蝶」も「松ノ枝の記」も、どちらもあくまで小説を書くことについて思案しており、作中作品の内容についてはほとんどなにもふれていない。なにかが生みだされるプロセスにひそむ説明不可能な“着想”の由来や、語られる言語の結びつきの有機性に着眼し、論理的に解析できない矛盾を矛盾のまま提示する。『松ノ枝の記』では特に思考を生みだすプロセスを注視し、自分の意識の在り方について疑義を唱えるのであった。

『松ノ枝の記』の著者の姉と名乗る女は、自分の思考の一部として別の男――この男こそが『松ノ枝の記』の著者「彼」である――が存在していることに気づき、自らの書く言葉はすべてその男の言葉なのだと説明する。書くという身体運動と思考を切り離して捉えるがため、思考を言葉に置きかえるのは果たして彼女なのか彼なのか、ここではまったく断定ができない。言葉を書くという行為はまさに、彼女と彼の「あいだ」で行われる“意識の交感”であり、思考と身体表現とのあいだにある断絶を私たちに想起させる*。また自分の表現であるはずのものが、まったく親密でない、むしろ不気味なものとして立ちあがってくる不思議についても深く考えさせられる*。*これは翻訳によってちがう言語に移しかえられた自分の言葉が、まるで他人の言葉のように感じられる現象と同じで、ここにも翻訳の重大な問題がひそんでいると言えよう。

しかしながら、「彼」と姉との関係はまさに、小説における作家と語り手の関係そのものでもある。作中の語り手が語る言葉は、ほかでもない、その小説を書いている作家自身のつむぎだす言葉であり、“語り手自身の言葉ではない”。その問題を仕掛けとし、物語として展開することで、円城は複雑に入組んだ物語を書きあげた。見事なものである。