ワザリング・ハイツ -annex-

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『娚の一生』を読む(感想・レビュー)

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すぐそばで起こっていそうなリアル。それが現代の物語の時流であることは知っている。本作を読んだとき、この女主人公はきっと現実の女の面倒を物語にもちこんだ結果生まれたキャラクターだと考え、憤りを覚えた私はたぶんまだまだ思考が幼い。物語は現実をなぞるものではなく、現実を別の角度から照射するものなのだと言いたくなってしまう。しかしそんな読み方をしても本作は少しも面白くないばかりか、魅力が半減してしまうということに気づいた。

一応誤解のないように断っておくけれど、私はわりあい本作が気に入っているし、ここまでいきいきと描かれた大人たちを見るのは久々であった。そしてこのありきたりでつまらない女主人公つぐみを――いろんなキャラクターからいろんな要素を寄せ集めて貼りつけたような人物ではあるが――結局のところ嫌うことができずにいる。どれだけ自己憐憫に浸ったあとであろうと、やはりなにかに“気づく”ことのできた人間が見せる力強さは、素直に美しいと思った。

 

●「結婚=幸福」というイデオロギー

これを見てぴんと来たひとのほとんどは現代の事情を思い浮かべるだろうが、イギリス文学が専門だった私にしてみれば、これは19世紀イギリス小説の定番の主題として思い浮かぶ。恋愛を明治期に輸入した日本では、その歴史がまだ浅く、200年前にイギリスがやっていたことでいままさに盛りあがっている最中である。当時のイギリスで小説といえばいまのテレビドラマや映画くらいに大衆的であった。「結婚=幸福」を見せつける物語の結末は、「家庭の天使」というおぞましい像を国をあげて女性に押しつけた当時の世論と相俟って、イギリス女性の虚像をつくりあげる大きな役割を果たした(文学的には、ただのご都合主義として、いまだに作品の欠陥だと批判の的になる点でもある)。とりあえず登場人物(女)に不倫させておけばリアル、みたいな現代日本の物語の風潮も、50年代あたりからイギリスで流行したハーレクイン・ロマンスの二番煎じのように感じる。まあ、それはともかくとして。

本作で本当に残念だったのが、結局つぐみと海江田が結婚したことである。不倫で疲れた女が幸せを摑む量産型の物語をここでこきおろすつもりはないけれど、つぐみと海江田が結婚せずにずっと暮らしつづける物語を心から望んでしまった私は、その物語が生むであろうゆがみのある幸せが、おそらく本作オリジナルのマリッジ・エンドより支持されないであろうこともよくわかっているので、それがとにかくなんだか悔しかったのである。結婚以外の幸せの摑み方があることを提示できなければ、私たちは一生それに縛られたままであり、出口はここにもなかったか、と私は思わずがっくり肩を落としてしまったというわけだ。

本作の主人公つぐみはなんでもできる女性であるが、その性質がゆえに他者との関係においてうまく自分を位置づけられない。それゆえ、いわゆる「私にはなにもない」系女主人公と同一視できる。例にもれず、つぐみもまた「結婚=幸福」というイデオロギーに絡めとられており、しかしながらここに海江田という酔狂な人物が噛んできて、物語に絶妙なバランスを生みだした。海江田は「結婚=幸福」の悪しきイデオロギーを少しばかり是正し、結婚と幸せを積極的に切りはなす態度をとる。幸せは結婚が生むかもしれないあくまでひとつの可能性であり、結婚の目的そのものではない、という主意がそこにはあり、幸せのための努力と、結婚のために心を通いあわせる努力とが、あくまで“結果的に”重なりあうものであることにつぐみは次第に気づきはじめる。その過程の美しさが本作の最大の魅力であった。

つぐみがなにかに“気づく”諸々の場面もまた本作の肝であろう。私は彼女に心底腹を立てながらも、ときおり見せる美しい思いやりや、なにかを摑んだときににじませる強さのようなものを見て、なんとなく納得したような気持ちになってしまった。悪い意味で説得されてしまったと言ってもよい。しかしこういうどこにでもいる女性が主人公として描かれるのは、おそらくは最後まで“気づく”ことのできないひとが世の中の大半を占めるという、悲しい現実にその淵源があるのかもしれない。

 

●付記

2年くらい前に書いた記事なので問題意識がはっきりしていなくて散漫である。しかしいまだにこの物語はどう読んだらいいのかがよくわからないし、扱われている主題にあまり興味がないのにやたらおもしろいところも、私を困惑させる要因なのではないか。

結婚したことがないから結婚について語るなというのは、社会に出たことがないから社会について語るなという議論と同じであろう。これらについては諸方でいろんな議論がくり広げられているが、長い時間をかけて大いにやればよい。私自身は議論が大嫌いなので、この問題に限らず、いつも議論には参加しない。参加せずに議論の中身を自分なりに整理し、それからこっそり自分で経験してみて――たとえばここでは実際に「結婚」してみるなどして――あれは本当だった、これは自分には当てはまらなかった、などとやるのがつねである。そういう内に閉じた生き方の欠点は、予防線をはらないこともあり、なにもかもやたら時間がかかって遠回りになるというところだが、そこも含めて愉しむことができれば勝ちだと思っている。なんだ勝ちって。価値か。