ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『WHITE ALBUM2』を読む 前夜(感想・レビュー)

f:id:SengChang:20181007193347p:plainいつかもう一度自分のもとに呼び戻したいと強く願っていた物語。あまりにも複雑にからむ主題をどこからときほぐしたものかわからなかったこともあるが、現実もろとも串刺しにしてくる箇所があまりに多すぎて、とても素直に読めないと長く放置していた作品でもある。そうこうするうちに四年も経ってしまい、やにわに啓示を受けて、このたび再プレイするに至った。二度とやらないと決めていたのにやり直してしまったのは、いまの自分が雪菜やかずさ、春希のゆがんだ思考をどう捉えるのか、確かめたかったからという一点に尽きる。

 

●“やさしい世界”という闇

f:id:SengChang:20181007193344p:plain仲間はずれにされることがいやだという雪菜は、春希とかずさの閉じた関係からはじかれないため、彼らが心を寄せあっているのを承知のうえで、春希の恋人になる道を選ぶ。そのことにより三人はかろうじて三人関係を続けるが、やがてそれぞれが閉じた二人関係を求めるようになり、ついにはばらばらとなってしまった。

いつまでも三人でいつづけるという、雪菜にとって自己同一性を保持するための試みが、逆に自己を崩壊させる原因となり、なおかつ周囲の人間の自己崩壊も招いてしまうこととなる。大局的に見れば、その破壊された自己を回復させるため、二人関係を各々が定義しなおし、三人関係をふたたび形づくる物語でもあった。それは閉じた二人関係ではなく、大きな共同体に属するふたりとしての関係であり、ひとりとふたり(かずさと雪菜-春希/雪菜とかずさ-春希)の関係であり、三人と社会との関係にほかならない。

f:id:SengChang:20181007193317p:plain三人が関わる共同体の正しい倫理は、逆説的に彼らを苦しめるものでもあった。三人の望む決断がこの倫理にそむくとき、武也や依緒といった周囲はだれも日和見をせず我先にと干渉し、容赦なく牙をむく――これが丸戸の描いてきた“やさしい世界”の裏の顔である。やさしい価値観がゆるぎないものとしてあり、皮肉にも、人物たちはみなその支配的な常識と戦い、まともな価値観の窮屈さに押しつぶされそうになってしまう。 

存在者が求めているのは承認されることではなく、異議提起されることである。彼は現存すべく他者へと向い、他者によって異議にさらされ、ときには否認される。彼に自分自身であることの不可能性、“イプセ”[自己性]*あるいはそう言ってよければ、分断された個人としての在り方に固執し続けることの不可能性を意識させるのは[異議にさらされ否認をうける]この剝離状態なのだが(中略)彼が他者に向うのはまさしくそうした不可能性を意識するためであり、この剝離状態の中ではじめて彼は存在しはじめるのである。こうしておそらく彼は、外に-置かれるという形で現存し(ex-ister)、自分をつねにとりあえずの外部生として、あるいはそこかしこに破綻をきたした現存として体験しながら、ただ、荒あらしい沈黙のうちで不断の自己解体を通じてのみ、おのれを構成してゆくことになる。(モーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』「否定的共同体」)*二重括弧内は原典では傍点。

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f:id:SengChang:20181007194403p:plain『WA2』は共同体についての物語である。本作の人物たちはみな、周囲の常識と自らの言動とを衝突させ、社会から否定されたり認められたりしながら、だれかとの関係を実現しようとする。こうした関係構築がそのまま自己実現へと結びつくゆえ、彼らの承認欲求はひどく深刻であり、この作品はほぼそのことしか語っていない。『WA2』は、自分とちがう他者の価値観をどう受止めてゆくかの過程を丁寧になぞり、他者との軋轢によって自己価値が崩れ去ったり、修復されたりするドラマを、ひたすら緻密に描いた物語であった。丸戸が描いてきた“やさしい世界”は、決してやさしさだけでできているわけではなく、他者との関わりのなかで自己が不断に崩れ、再構築されるような、不安定な舞台として描出されるのである。

雪菜とかずさそれぞれが春希と構築する二人関係は特に特徴的であった。前掲した著作においてブランショは、「社会の中での結合をなし、社会から合法的あるいは夫婦の結合として認知される権利を受けとっている(幸福なあるいは不幸な)愛」と「いかなる名をも――愛とか欲望とかいった――受けつけず、存在者たちを惹きつけ、(中略)彼らを通常の社会から引きはがしてしまうそんな運動」とを比較し、「恋人たちの共同体」について以下のように述べる。

前者の場合(単純化しすぎることを承知で夫婦愛と定義しよう)、「恋人たちの共同体」はそれをとりまく社会と妥協することによってそれ自身の要請の力を弱めている。この社会は恋人たちの共同体の存続を許しはするが、それを特徴づけるものすなわち背後に「呪わしい過剰」を隠したその秘密を放棄させてしまうのだ。後者の場合、恋人たちの共同体は、伝統の諸形態を意に介さず、たとえばどれほど寛容なものであれ社会的同意を一切求めようとはしない。(ブランショ、前掲書、「恋人たちの共同体」)

f:id:SengChang:20181007193319p:plain前者の例は雪菜ルートに象徴される関係である。雪菜と春希の恋人関係にうしろ暗い秘密の世界は存在せず、すべてが共同体の承認の下に開かれている。「closing chapter」で明かされる雪菜と春希の三年間――そしてかずさとの過去――は、排他的な関係ゆえに共同体の介入をゆるさず、周囲は雪菜と春希の閉じた心にふりまわされ続けた。それゆえ「cc」を越えたあとの雪菜と春希、そしてかずさは、自分たちの関係を決して閉じたものにせず、自身の自己を社会に投込み、否認されたり承認されたりをくり返しながら、共同体における三人の位置を必死で探ろうと努めた。また後者の例は、むろん、かずさルートであろう。かずさと春希は、周囲をとり巻く人々のなかにふたりの居場所を見つけることができず、共同体の外へ出るために故郷を捨てる決断を下した*。彼らの結んだ関係は、自分たちを「通常の社会から引きはがしてしまう」ものであり、「社会的同意を一切求めようとはしない」排他的なものであったと言わざるをえない。こうした相違は、かずさルートにおける春希の言葉「雪菜の『三人』と、かずさの『三人』は違うんだ」「雪菜の求める『三人』には、周りに広い世界がある」「自分たちを取り囲む暖かさや、優しさや…時には厳しさにみんなで触れながら、大きく広く、正しく生きていく、そんな生き方だ」という言葉からも窺える。*雪菜ルートでは、かずさのピアノを日本中の人間に認めさせることで、かずさが新しい共同体と結びつくさまが描かれた。

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f:id:SengChang:20181007193338p:plain共同体の性質としてブランショが前掲書のなかで“否定”という特徴を挙げたように、本作でもひたすらに否定が貫かれ、個々の価値の反転を促す仕掛けがある。たとえば、だれかに手を差しのべる行動は、本作でくり返し強調されるものだが、ここには「だれかに手を差しのべてあげる」という傲慢な態度を裁く視点が必ず用意され、ひとつの価値に対し複眼的な視点でもって見つめる態度が貫かれている*。ゆえに、なにかをしてあげたいと相手のために尽くすときは決して物事がうまくいかず、自分も心の底から歓ぶことが優先されるとき、あるいは自分も救われたいと心の底から望むとき、はじめて相手も自分も救われるのである。自分と相手がともに救われること、そして周囲のひとたちも救われること、つまりは相手とふたりで共同体のなかに還ることが、唯一無二の答えとして提示される。『WA2』の前提が、音楽というひととひととをつなぐものである以上、またやさしい世界を前提として物語が書かれている以上、共同体に戻れないかずさルートが本篇のtrueとして据えられないのは仕方のないことであろう。だからこそ「あなたに捨てられても、世界と自分を切り離せなかった」と言えてしまう雪菜を選ぶルートだけが、社会とおりあう“三人”を再構築できる、唯一の道となるのであった。*これは当然、三角関係や浮気にも理由があるという、否定的価値を容認させるための、緩衝材としての役割も果たしている。

 

●付記

f:id:SengChang:20181007193333p:plainまさか再読する日がやってくるとは思わなかった、というのが本音。自分の研究もそっちのけで夏休みに夢中でプレイしたのを覚えているが、今回も夢中で読んでいたらいつの間にか終わっており、かずさと雪菜のルートを一日で読み終わった日には、言葉にならない充実感もひとしおであった。以前に読んだ際は特に興味の惹かれる主題を見つけることができなかったが、今回はまとめておくべき諸々の問題を見出して、楽しい読書体験ができたように思う。再読の理由については実はもうひとつあるのだが、それについては後夜の付記にてふれることにする。

どんなに落ちぶれてもパートナーとしての相手を失っていない春希にはなんの共感も抱かない。本当の孤独とは、絶望のふちでだれにも手を差しのべてもらえないときに訪れるものである。本作においてそうした孤独は、すべてを失い芸術と生きるかずさの姿を通してしか描かれていない。『WA2』で描かれる深刻なやりとりについては、乾いた笑いで読み流してしまった箇所も多い。俗物の物語ゆえ、あら探しをすればいくらでもこきおろすことはできるけれど、それは名作だからこそだというのを決して忘れてはならない。

また、今年が『WHITE ALBUM』20周年記念だと気づいたのは、まさにプレイの最中のことである。そんな偶然も手伝ってか、初代『WHITE ALBUM』のリメイク版(PCのDL版)も現在プレイしており、さらに『WHITE ALBUM』のアニメ版もあらためて観ているが、とてもおもしろい。特にアニメ版は、映像美、コマ割りにシークエンスのつくり方、音楽など、すべてにおいて極めて芸術性の高い作品となっており、こんなにおもしろかったか?と思わず舌を巻いてしまった。ゲームの方も、音楽は相変わらずすばらしく、立ち絵も動く、GUIのデザインもすばらしい、とかなり満足度は高い。会話やエンカウントシステムなどは『キミキス』を思いだして楽しかったものの、やや作業感が強く、それが作品としての緊張感を損ねているのが少し残念である。

⇒『WHITE ALBUM2』を読む 後夜(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

⇒『WHITE ALBUM』を読む(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

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