ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『WHITE ALBUM2』を読む 後夜(感想・レビュー)

f:id:SengChang:20181007193325p:plain個人的に最も没入して読んだのは「closing chapter」である。やはり雪菜ルートはいい。「coda」のかずさルートもよかったけれど、あまりにも苦しすぎて、二度と読みたいとは思わない(四年前にも同じことを思った)。長篇作品で三部構成ともなると、読者それぞれにとっての特別な章があるもので、それも楽しみ方のひとつではないかと思う。前夜では丸戸の“やさしい世界”がもつ残酷な一面についてとりあげたが、後夜では春希たち三人のもつゆがみや矛盾について、さらには本作の構成についてもとりあげ、もう少しこの物語の妙について考えてみたい。

 

●ねじれた正論という空論

f:id:SengChang:20181007193326p:plain春希の言動は母親のネグレクトにその淵源があり、見捨てる/見捨てられることに対し異様なまでの拒否反応を示す、いわゆる転移・投影の適応機先が端々に散見された。過剰なまでの生真面目という春希独特の性格は、ひとりで生きねばならなかった子供時代に形づくられた。つまり、自分のことを棚に上げてひとに正論を吐きつづける春希の醜悪な矛盾は、彼の真面目な性格が、そもそもひどくゆがんだ土壌に形成されたからなのである。

雪菜がくり返し主張する「三人」の関係もまた、恋慕するなかでの愛情と友情の両立という、併存しえない関係を前提とするものであった。「あなたに捨てられても、世界と自分を切り離せなかった」という彼女の言葉は、たとえ春希への愛情が一番であっても、その根底に他者との関係が前提されていることをよくあらわしており、この点については前夜で詳述した通りである。春希への強い想いやふたりだけの時間は、どんなに閉じていたとしても、周囲と溶けあった環境でのみ存立するものであり、だからこそかずさなしで成立する彼らの結末はありえなかった。雪菜の幸せは、春希とかずさが特別な関係でありながらも、自分が春希の一番であるという、はじめから矛盾したものなのである。

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f:id:SengChang:20181007193343p:plainそしてそれこそが、雪菜がかずさに“勝てない”理由であり、春希をかずさにとられてしまう要因ともなった。かずさは雪菜を切捨て春希とふたりきりになることができるが、雪菜にはそれができない――もし雪菜がまわりとの関係を断ってしまえば、それはもはや春希や周囲の求める、あるいは雪菜自身の望む雪菜ではなくなってしまう。春希に対する自分の愛情を限界まで突詰めると、彼の好きな自分ではなくなってしまうという、大きな矛盾が雪菜の最後の一歩を大きく阻んだ。

ゆえに雪菜は春希に対しても同じ態度をとる。かずさへのあこがれが消えないことを偽るのではなく、その想いを抱きながら生きることを求め、すべてをまるごと受入れようとする。これに対しかずさは、三人の関係をゆがめてでも、あるいは春希が春希でなくなったとしても、ふたりで生きてゆく覚悟を決める。かずさが主張した春希のアイデンティティ――安定志向、リスク管理能力、理路整然といった性質がゆがんだところでかずさは少しも動じない。ゆがみを互いに受けとめ合おうとする、これがかずさルートの潔いいびつさであり、やさしい世界の住人である雪菜には決して覆せない力強さなのであった。

このようにして、もとの形を保とうとする、変わらない形を正とする雪菜と、相手のためにゆがみ、それを受けとめて生きるかずさルートでは、自己確立の立脚点が大きく異なっている。しかしながら、三人の言動はある意味で誠実なものでありながらも、依拠する行動原理がそもそもゆがんでしまっており、彼らは互いに足元をすくって次第に崩れ落ちてゆく。特に春希は、もともとが論理的思考の持主であるため、他者だけでなく自身のはらむ矛盾にもかなり敏感であり、自分の首を自分で絞めつづけた人物だと言えよう。こうした矛盾的自己同一が、本作の物語が著しく劇化(dramatize)されたひとつの要因なのではないだろうか。

 

●反復の様式美

f:id:SengChang:20181007193341p:plain「どれだけ安易で使い古された飛び道具だとしても、それがいまでも多くのユーザーの支持を集めるのなら躊躇なく使うべき」だと『冴えない彼女の育て方』でも言われていたが、『WA2』で使われている反復技法に関しては、極めて念入りに準備されたものと言ってよいだろう。それはいくつか例をあらためてみればすぐにわかることである。

『WA2』の人物造形は前作『WHITE ALBUM』の人物から要素をひき継いだものと言える。演劇サークルで脚本を書いていた美咲はそのまま千晶に当てはまり、冬弥が家庭教師をしていた歳下の観月マナは小春、仕事人間であるマネージャーの篠塚弥生は風岡麻理に、孤高の天才緒方理奈はかずさ、そして天真爛漫な歌の女神森川由綺は雪菜に、それぞれまったく同じ立ち位置で据えられている。地続きの作品としてここまで周到な人物配備をした作品は稀であろう。しかも各人物の本質的な部分も多くは発展的な形でひき継がれている*。この点から分析を行った読みはあまり見かけないが、おもしろいものになること請合いである。*この点についてここであまり立入るつもりはないが、たとえば理奈は、かずさと同じく、自身のアイデンティティである歌(仕事)を捨てる選択を迫られるとともに、歌か愛情、あるいは友情といった複数の大切なものに板挟みにされ、自己崩壊の危機に陥る。また自分の歌の世界が、由綺との友情によってさらに大きく開かれてゆくところも、雪菜によってかずさの才能が大きく育ったところにその影を見ることができよう。

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f:id:SengChang:20181007193342p:plainまた上記の例を挙げるまでもなく、『WA』の焼直しとして『WA2』があることはだれの眼にも明らかだが、本作ではそれを作品の主題としてもとりあげ、物語構造(narrative structure)とプロット、そして主題にまで織込んでみせたところが驚くべき点である。順を追って見てみよう。

物語構造については、本作は「introductory chapter」「closing chapter」「coda」と三部構成になっており、雪菜・かずさ・春希の三人の因縁が何度もくり返される構成となっている。実はこの構成は「提示部」「展開部」「再現部+コーダ」と展開するソナタ形式を踏襲しており、音楽が主題である本作ならではと言えよう。しかもソナタ形式では、「提示部」の主題が「coda」に連なる「再現部」でふたたびくり返されるという原則があり、三角関係が「coda」でくり返される本作の物語構造と完全に一致する*。*また、かずさが作中でベートーヴェンのピアノ・ソナタを弾く場面もあり、丸戸が確実にソナタを意識してこの物語を書いた様子が窺える。

プロットはこうした形式の上に組立てられており、全篇を通じてたたみかけるような反復の連続があることは、一度読んだひとならいまさらくり返すまでもないだろう。「ic」での一週間を、「coda」でふたたびくり返しながら、「届かない恋」をつくったように「時の魔法」をつくる三人。あるいは小春のルートについては、春希たち三人の関係をなぞるような小春の問題を、春希が代理体験として解決する物語であった。さらに千晶のルートでは、彼女が「ic」での三角関係を舞台化することで、春希と雪菜に過去の追想と捉えなおしをさせながら、そこに自らの想いを込めて春希に伝えようという、翻案のお手本のような物語が語られた。すでに明らかなように、「coda」だけでなく「cc」でもまた展開の反復が多く、本作が“くり返す”ことを主軸に置いた作品であることは言を俟たない。

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f:id:SengChang:20181007193318p:plainそして物語の主題としては、「提示部」である「ic」の主題――ここでは大きく捉えて“三角関係”としておく――が、「再現部+コーダ」に当たる「coda」において再現され、ルートごとに別々の結末へと向かう。主題の展開もすべてソナタ形式に依り、歴史は必ずくり返す、一度措いた問題はめぐりめぐって戻ってくる、という本作の中心主題を徹底して貫く。このようにして『WA2』は、物語構造、プロットがともに「反復」を原理とし、すべてはくり返されるという物語の主題を、これでもかというほど“くり返してみせる”のである*。*これは『水葬銀貨のイストリア』でも見た手法であり、その点については以前の記事で述べた通りである。

こうした反復こそがノベルゲームの様式美だというのは言わずもがなである。反復こそ――ループものと言いかえてもよいが――丸戸の言うところの「安易で使い古された飛び道具」であり、それを物語構造、プロット、主題、さらには人物造形や音楽など、作品を構成するあらゆる要素に適応し、つくられたのが『WA2』という作品である。本作がただのメロドラマではなく、戦略的な作品作りの末に仕上げられた、微に入り細を穿つ美しい作品構造をもつことは、もっと注目されてもよいのではないかと思う。

f:id:SengChang:20181007193348p:plainそのほか、本作について書いたページはネットに数多く存在するが、個人的に次のふたつのページがおもしろかったのでリンクを貼らせていただく。

『夜明けの呪文~the time spell~』

『蝸牛の翅(かたつむりのつばさ)』

 

●付記

f:id:SengChang:20181007193320p:plain付記なので久々に個人的なことを書く。

私が家族の物語ばかりを好むのは、結婚や家族というイデオロギーを支持しているからではなく、自分がこれまでも、そしてこれからも、家族に囚われながら生きてゆくしかないからである。丸戸作品がこれまで総じて描いてきた“家族”は、変妙奇怪で特異な状況にありながらも、最後には世の中の画一化された価値観にたどりつく、やさしい世界の家族である。『WA2』は本当によくできた物語であるが、この作品がくり返し提示する、幸福な家族という正しさを心から受入れるのは私にはとても難しい。だからこそ、ここまで強く一般価値を高らかに掲げてみせる物語を、あえてノベルゲームで語った計略にはため息が出る。多くのノベルゲーマーにとって手の届かないものをここまで強くうちだされると、私のような人間はもはや笑うしかない。

私が幸福な家族という形に疑義を抱くのは、仲睦まじい家族という物語で演じつづける両親の不和を幼い頃から見てきたからであり、また自分自身が結婚することに失敗してしまったからであろう。ゆえにこういうものを見せられると、大変辟易してしまうのも事実であり、たとえば『CLANNAD』についても同じような思いを抱いた覚えがある。家族こそが正解だとしか思えなくなるような、狭隘で排他的な物語を公正に読むことが、いまの私にはとても難しいのである。

f:id:SengChang:20181007193328p:plainしかし物語自体への評価はまた別であり、実際に批評空間では本作に95点の評価をつけた。様々な主題への複眼的な視座をはじめ、物語としては文句のつけようがなく、高く評価されるべき作品である。その一方で、『YU-NO』のような高い文学性をもった作品を差しおいて、こうした大衆的な作品が業界に君臨するというのは、眉をひそめたくもなる。これは文学の世界でも同じである。

『腐り姫』のなかにある文学的な感動が、『WA2』のような物語のもつ画一化された幸福の、圧倒的な力に勝てるとは私は思わない――むろんこれは私のなかだけの話である。文学的物語と大衆的物語の問題は、自分の文学の淵源に関わる深刻なもので、私は十数年のあいだこの問題に頭を悩まされてきた。文学的な感動と、現実的な感動とはまったく別物で、それを一緒くたにして語ることは本来であればすべきではない。これは芥川と谷崎の論争にも結びつく問題であり、機会があればいつかどこかに書くかもしれない。

⇒『WHITE ALBUM2』を読む 前夜(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

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