ワザリング・ハイツ -annex-

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『腐り姫』を読む 補遺Ⅱ(感想・レビュー)

f:id:SengChang:20181204215804p:plainここのところ気になっているキーワードにimprisonment(幽閉)というものがある。この言葉を一度自分の主題としてとりあげたのは、確かエミリー・ブロンテの研究をしていた際、Richard Benvenutoの論文でimprisonmentという言葉を見つけたときであったか。エミリーの作品はもちろん、シャーロット・ブロンテの作品や、次の研究対象であるメアリー・シェリーの作品に見出すこともできる重要な主題である。

 

●“幽閉”の主題

f:id:SengChang:20181204215803p:plain腐り姫』に幽閉の主題を見つけるのは、物語の円環構造やくり返す一族の問題を踏まえれば、ひどくたやすいのではないか。本作であらわされている日本の村社会がまさに個を幽閉するものであり、二人関係の循環の外に出ることができない五樹と樹里(蔵女)もまた、簸川家に閉じこめられた存在であった。『腐り姫』を読んだときの息の詰まるような閉塞感は、むろん、随所にあらわれる幽閉の主題が作品の中核を成すからにほかならない。

幽閉の特徴として顕著なものは――これはエミリー・ブロンテ詩篇でもたびたび見られるのだが*――外が内に含まれるという矛盾的同一である。物語が進むにつれて、次第に五樹の父母や義母の芳野の過去が語られ、それまで展開された時間がすべて五樹の幻であったことがわかり、最後には五樹と樹里(蔵女)が自分たちの父母そのものである事実があきらかとなった。すなわち、五樹たちが自身の内=家(うち)の歴史を紐解くことで、外の世界がすべて五樹の内の世界に包摂されたものであることが明白になる。ここには、世界が人間を含むのではなく、人間が世界を含んでいるという、逆説的な主題が見える。*腐り姫』からはそれるのであまり大きくとりあげないが、エミリーの"No coward soul is mine"という詩では、"O God within my breast / Almighty ever-present Deity"と神が自分の内に存在するとし、"Every Existence would exist in thee"と語られる(182)。このようにして内と外が一体となる関係は、西田哲学と非常に相性がよい気がする。

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さらに五樹は、蔵女と同じ時間を超越した存在となるため、記憶にある過去だけでなく、自分のまったく知らない過去へ旅することも可能になり、彼のなかで過去と現在はシームレスに結びつく。この時点における五樹と蔵女にとって、過去や現在はまったく区別のないものであり、どちらがどちらを含むわけでもない、すべてが“現在”として定義される時間に浮遊している。彼らは自分の内側に世界を、いわば“記憶”としてとり込み、そこへ自由にアクセスできるようになった――そしてここが興味深いのだが、ふたりは自由に時間を行き来することができるにもかかわらず、そのような括弧つきの“現在”に囚われたまま、決して外に出ることができない。

ふたりは世界を自分自身のなかに幽閉することで、簸川の家の呪いを脱し、全能になったかに見えるが、今度は時間を失った世界に幽閉され、彼らの二人関係はふたたび膠着状態を迎えてしまう。その解決策こそ、最後に蔵女が提示してみせる三つの選択なのであったが、結果的にはどれも彼らの幽閉状態を解決するものとはならなかった。

f:id:SengChang:20181204215808p:plainf:id:SengChang:20181204215811p:plain特別な「現在」から抜けだしたように見えるふたりは、あろうことか、自分たちの父母として「過去」に生まれなおしてしまい、ふたりの旅した時間の外には決して抜けだすことができない。彼らが外に出るためには、この世界から消滅するしか方法はなく、「誰の記憶に残ることもなく」「ただいなかったことになる」選択肢しか残されていない。それは『SWANSONG』で鍬形が試みたような、無限後退の袋小路から抜けだすための、自分の属する秩序を葬る自己破壊の論理である。終幕におけるふたりの消滅は、彼らの存在の痕跡を消し去り、ふたりの歴史をまったく別の物語へ置換えてしまう選択であったろう。これは人間が歴史を離れては存在しえない現実を如実に物語っている。

外の世界と内の世界の包摂からもあきらかだが、五樹と樹里(蔵女)の生は「なかったことにする」以外に幽閉を脱する道がない。この閉塞状態こそが『腐り姫』の語るこの世の非情な摂理そのものであり、くり返される同じ時間の波がもたらす息苦しさの正体とも言えよう。私たちの生きる社会はこうした相の下に築かれたものであり、世の中を心のうつし鏡と捉えてもなお、自己の属する世界、「家」から離れては、私たちは決して存在しえないのである。このようにして『腐り姫』は、自己同一性を担保する世界から干渉され、自己の内に流入する世界に圧しつぶされてゆく個人を描いた、ある悲劇の物語と言ってよいのかもしれない。

<Works Cited>

Brontё, Emily. Emily Jane Brontё: The Complete Poems. Ed. Janet Gezari. London: Penguin, 1992.

 

●付記

f:id:SengChang:20181204215807p:plainなんやかんやと理由をつけていつもこの作品に戻ってきてしまう。しかしこれが正しい文学との付きあい方ではないか。そう――私にとって『腐り姫』はもはや立派な文学である。幾度となく紐解いても、ただ思いを馳せるだけでも、愉しい。こんな物語との出逢いはそうそうあるものではない。

いまさら『腐り姫』について熱弁する人間は私くらいのものだと思うが、なにかの熱に浮かされたのか、ときおりうっかりまちがってプレイしてしまったひとが、おもしろかった、と言っているのを聞くと、心あたたかな気持ちになる。16年経ったいまも読み継がれる物語がノベルゲームにあるというのは、なんだかよいではないか。また思いついたことがあればそのつど書き残しておきたいと思う。

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