ワザリング・ハイツ -annex-

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ポール・オースター『鍵のかかった部屋』を読む

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ニューヨーク三部作の三作目『鍵のかかった部屋』は、三作のうちで最も内省的な物語だと言ってよい。語り手の幼なじみファンショーをめぐる物語は、語り手自身を徹底的に舞台袖へと追いやり、なんの魅力のかけらもない人間として描きだす。語り手には名前すらない。しかしそうでありながらも、ソフィーが作中で述べているように、これはファンショーの物語を語ることで語り手が自己を確立する物語である。この矛盾こそがまさに本作の魅力ではないだろうか。

My true place in the world, it turned out, was somewhere beyond myself, and if that place inside me, it was also unlocatable. This was the tiny hole between self and not-self, and for the first time in my life I saw this nowhere as the exact centre of the world. (235)

自己の内に他者を見て、他者の内に自己を見るとはまさに、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一の論理を彷彿とさせるものである。語り手は文字通り他者になり、他者の人生を生きはじめる――ソフィーと、彼女とファンショーの子供と三人家族になり、ファンショーの生きるはずだった人生を生きはじめた語り手は、ファンショーについての本を書くため彼の足どりを追いかける。まったく足どりが摑めぬまま、ただただ膨大な情報を集積しつづけることに時間を費やし、やがては自分自身のためにむだな時間稼ぎをしていることを語り手は自覚する。確かに語り手は、ファンショーの生を自身の内にとり入れ、彼の生そのものを生きることで、自分が望んだ物書きとしての人生を送る機会を得た。しかしここには大きなパラドックスがある――ファンショーを追いかけることで幸福の絶頂を極め、自己実現に成功しながらも、その人生そのものが語り手の没個性を前提としている。ファンショーを追うごとに語り手の存在は徐々にうすくなり、語り手の作家性も当然のことながら消えてゆく。そして彼はファンショーについての本を最後まで書きあげることができない。

語り手にとって、書くことと書かないこと、自己を存立させることと自己を喪失することはすべて等しく結びついている。前述のように、本作では西田の主張する絶対矛盾的自己同一の特徴がいたるところに見られるのだ。五章の終わりで語り手は、雪の壁に閉じ込められた男の話に言及しながら、次のように意味ありげな言葉を語っている。

…surely a man cannot live if he does not breathe. But at the same time, he will not live if he does breathe. (256)

呼吸をしなければ生きていられないが、呼吸をすれば周囲の雪が溶け、雪のなかに埋もれて結局は死んでしまう。こうした特徴は、ファンショーを追いかけるごとにファンショーから遠ざかるという、語り手の矛盾した状況にも象徴的にあらわれてくる。柴田元幸が翻訳版のあとがきで述べているように、「最大の他者は自己の中にいる」のであり、その他者はつねに自分とともにあったし、今もあり、これからもありつづける。“Fanshawe was exactly where I was, and he had been since the beginning.”と語り手が述べるのはつまりそういうことであろう(292)。語り手の自己に大きな影響を与えてきた、双子と間違えられるほど似通った唯一無二の友は、語り手の内に宿りながらも摑みどころのない他者――西田の言うところの「絶対の他」――であり、自己の一部を成すにもかかわらず自己を呑込んでしまうという、絶対矛盾的自己同一の特徴を有するものである。こうした他者の住まう、自己の奥深くに隠された場所のことを、語り手は「鍵のかかった部屋(a locked room)」と呼ぶのであった(292)。

※出典はすべてAuster, Paul. The Locked Room: The New York Trilogy. Kent: Faber, 2004.による。