ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

野本寛一「神と自然の景観論」を読む

 f:id:SengChang:20190725220916j:plain

「神々の風景」は総じて変貌が著しい。それは衰微・荒廃してきているといって間違いない。その変貌と衰微は日本人の「神」の衰微であり、日本人の「心」の反映にほかならない。すべての環境問題の起点はここにある。自然のなかに神を見、その自然と謙虚に対座し、自然の恵みに感謝するという日本人の自然観・民族モラルが揺らぎ、衰えてきているのである。(「緒言」)

人々が自然に対する畏敬の心を忘れかけている現在、かつてほど昔話の力は効力をもたなくなってしまった。それぞれの土地に伝わる古い神話や説話には、その土地に住む人々の郷土への愛情がよくあらわれている。たとえば林業を中心産業とする土地であれば、伐採の犠牲を忘れぬために巨大な神木を祀り、切れば祟があると伝える。川の氾濫に悩まされる土地であれば、水の神を祀ることで水を大切に思う心をみなが分かち合い、水害と共存するよう努めてきた歴史がある。人々の生活と自然とは一体不二の関係にあり、その現実を物語に乗せ語り伝えてきたのが、いにしえの人々の知恵である。森を切拓き、つねに自然の息遣いを感じながら生活することがなくなった今、私たちがそのような“お話”から遠ざかってしまったのは必然であると言えよう。そのなかで静かに警鐘を鳴らしつづける研究者のひとりが、この野本寛一である。

野本は「自然環境論」という言葉を用いて、自然から環境への働きかけと、環境から自然への働きかけの双方から成る、伝承という“物語”を扱いつづける研究者である。先にも述べたように、現在の環境問題の端緒と言うべきものは、私たち現代人が失いつつある神聖への畏敬であり、自然を含めた郷土への愛情にほかならない。その点を踏まえたうえで野本が着目するのは、各土地における信仰と環境との特別な関係である。

まず、信仰の生成基盤としての自然環境を見つめなおしてみる必要がある。(中略)ここには基本的に、自然環境→信仰生成という矢印が見られるが、先にもふれたとおり、これとは逆に、信仰が存在することによって自然環境の保全が得られるという矢印も存在する。さらに、生成された信仰が新たな文化環境・社会環境を生成するという展開も一般性をもっているといえる。門前町の形成や、交通機関の発達による衰退などがその例である。(「緒言」)

環境によってつくられた信仰が、さらに環境を積極的につくってゆく――環境と信仰の一体不二の関係、環境が信仰の対象となり、信仰が環境として人々の生活に組込まれるという、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一の世界がここでは語られている。信仰が深まるにつれて信仰から離れてしまった私たちの歴史もまた、こうした性質からすれば、いわば必然の歴史であったと言うほかない。しかしだからこそ私たちは今、自然に対する眼差しをもう一度とり戻し、ふたたび“お話”に息を吹込む責任を問われている。森を切開くことで、私たちがいたずらに暴いてしまった「奥」にある自然の神秘を、今一度見つめなおす必要に迫られているのではないか。その神秘を余すことなく語ったのが本書『神と自然の景観論』である。

「環境畏怖要因と信仰の生成」「地形と信仰の生成」「聖樹の風景と伝承」「環境保全の民俗と伝承」「神話の風景」と、各章題からもわかる通り、本書は自然を様々な角度から照射し、八百万の神の歴史をたどった研究書である。たとえば、以前ここでもとりあげた「みさき」という言葉の歴史をはじめ、洞窟などに「籠る」信仰と伝承――折口信夫も言及している『竹取物語』の「籠り」など――について、あるいは水をめぐる地形と水分信仰の形成、依代やご神体としての木々についてなど、文学ともなじみ深い多くのテーマが紹介されている。

自然への細やかな目配せだけでなく、細部に宿る物語を大切にし、私たちが確かにアニミズムの文化土壌に育ったことを、本書は思いださせてくれる。私たちの身のまわりのなんと物語で溢れていることか。物語を通してであれば、私たちはこんなにも豊かに自然と対話することができる。野本の研究が教えてくれるのは、そんな自然と人間との数千年にもわたる「からみあい」の歴史なのである。