ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『ヨスガノソラ』を読む

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夢野久作「瓶詰地獄」とともに語られたレビューがあり、彼らのゆく末が実際にはどうなったのかがわからない、という問題が語られていた。信頼できない語り手(reliable narrator)や書簡体小説(epistolary novel)の技法をとり入れながら、複数視点の特質をうまく生かし、芥川の「藪の中」のような真実の見えない物語に仕立てあげたことで、余韻の残る“お話”としてとても印象深い。

実はとても好きな作品で、これまで何度も見直してきたアニメーション版『ヨスガノソラ』。鮮やかな色彩で満たされた田舎の情景も然ることながら、サウンドトラックの美しい旋律を思いだすひとも多いはずである。様々な点で有名になった作品だけれど、大局的に見て、またオムニバスの形式をアニメ版にもそのままもち込んだところも含めて、かなりよくできた作品ではないだろうか。

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腐り姫』もそうであったが、近親相姦が主題になると必ず焦点化されるのが、愛情を深めることが幸せを損なうという、矛盾的同一の問題である。悠と穹は両親を失い、ふたりきりで生きなければならないという境涯にあって、互いを互いによって縛るねじれた依存関係に陥る。悠と穹は実の兄と妹でありながら、幼い頃にはなればなれに暮らしていた事情もあり、互いを他者として意識する経験をしてきた。他者でありながら身内でもある奇妙なふたりの関係は、よその人間とは決して結ぶことのできないものであり、それが彼らの“よすが”となってふたりを縛りつづけることになった。からんだ糸を解きほぐしながら外に向かって関係するのがそれぞれのルートであるならば、穹とのルートはからんだ糸をめっぽうにひっぱり、固結びする物語であろう。

破壊と生成という言葉がまさにぴたりとくる関係で、ふたりの心身の距離が近くなればなるほど、穹の破壊衝動やふたりの揮発性は大きくなり、かつてフロイトやサビーナ・シュピールラインが指摘したように、性への衝動と死への衝動が次第に同一化してゆくのである。メロドラマのような意味ではなく、彼らにとっての性の追求はそのまま生活の破綻、家庭の破壊、社会からの疎外を意味する――心身合一に向かい自己の確立が果たされることで、彼らは矛盾的に自己崩壊をきたし、そして社会からも排斥されてしまう。社会との断絶により自己に亀裂が入るほどふたりの絆は深められ、こうした崩壊への過程が自己存立の確かな足どりになるという、救いがたい関係がふたりの生の基盤である。それゆえ、よみがえりの湖で一度ふたりが死に、ふたたび生まれるという神秘の体験は、それが真実であるか否かに限らず、一体不二の破壊と生成がふたりの生を支配していたことを見る者に痛感させる。

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ヨスガノソラ』はその名の通り、人物たちの“よすが”を主題とした物語であり、“よすがの穹”という真実を悠が受入れるまでの物語でもある。近親相姦の物語では、禁忌が強調されるものが多い一方で、本作はむしろ徐々に朽ちてゆく兄妹の関係を描出し、身を滅ぼすまで愛情を生みつづける矛盾した生の姿を描いた。この先どう生きるかではなく、いまをどう生きるかに立脚した物語は、やはりよいものである。

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