ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

フェルナンド・ペソアを読む

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この次に、プラタ街から、ドウラドーレス街から、ファンケイロス街から消えてなくなるのは、この私だろう。明日、この私が。――感じ、考えているこの魂が。自分にとってこの宇宙すべてであるこの私が。――そうだ、明日これらの街並を通りすぎるのを止めるのはこの私だ。「あいつはどうなったんだろう」と人びとがぼんやりと想い出したりするのはこの私なのだ。そして、私がしたすべてのこと、私の感じたすべてのこと、私が見たすべてのことは、なんの変哲もない街の通りの日常生活のなかで、通行人がひとり少なくなったということだけになってしまうのだ。(「不穏の書」*1

ペソアについて書くのはとてもむつかしい。ペソアは詩人である。――『不穏の書』という詩のなかでは彼のうちに棲む色とりどりの世界=人間(ペルソナ)が言葉によって切りだされる。これほど徹底して“私”に根ざした作家も珍しいのではないか。自己に私を幽閉(imprisonment)すること、自己の外に広がる文学を自己のうちにたたみかけて表現すること、それがペソアの目指した文学の形であり、「宇宙すべてであるこの私」に世の中のすべてはうつしだされてゆく。

ぼくはなにものでもない。

これからもかわることはないだろう。

なにものかであろうとする意欲も湧かぬ。

それはそれとして ぼくのなかにはある この世界の夢のすべてが。(「煙草屋」*2

私は自分自身の風景

自分が通るのを私は見る

さまざまにうつろい たったひとりで

私は自分がいる“ここ”に 自分を感じることができない(「断章」*二重括弧は原典では傍点*3

もしほんとうに賢ければ、ひとは椅子に座ったまま世界の光景をそっくり楽しむことができる。本も読まず、誰とも話さず、自分の五感を使うこともなく。魂が悲しむことさえしなければ。(「断章」*4

世界について、あるがままをただ受容れるべきであって、それ以上の意味はない、とペソアはくり返し語っている。ペソアという一個人は周囲の世界をうつしだす鏡のようなものであり、うちに棲む様々なペルソナの鏡に反射した虚像を、文学としてふたたびとりだし文字に書き起こす。私たちはそれを見て、あらためて世界の現実を目の当たりにするのである。そこにうつしだされるのは、まぎれもなく、私たち自身の棲む世界の現実である。

そして異名について。20代半ばのペソアはやがて様々な異名を使い詩を書くようになっていった。たとえば19世紀イギリスにおける匿名作家とはちがい、ペソアが名を装うのにはいかなる環境的理由もない。それは純粋な詩的活動の一環であるにすぎない。

わたしたちのなかには なにものかが無数に生きている。

わたしが思考したり感覚したりしても わたしにはわからぬ、

思考したり感覚するのが誰であるのか。

わたしは思考や感覚の

場にすぎないのだ。(「わたしたちのなかには」*5

ひとつの自分として苦しむ者は幸いである。分裂とは無縁に苦悩に苛まれる者、不信仰のうちですら信じる者、留保なしに陽溜まりに座ることができる者は幸いである。(「不穏の書」*6

それぞれのペルソナはペソアの生みだした、あるいはペソアのうちに棲みつく人間であり、そのさまがすでに詩的と言うべきかもしれない。別の名で書くことはペソアにとってひとつの詩的活動にほかならなかった。完璧な別の詩人を生みだすという行為はそのまま詩を生みだすことと同じである。そして彼らの書いたものは、限りなくペソア自身から隔てられた純粋な詩的なものとして独立しうる。そのような詩的創作をめぐる世界全体が彼にとっては“詩”なのである。その中心に在るペソアという一個人はあくまで詩が生みだされる文学の「場」にすぎない。「いずれにせよ、私はつねに自分の仕事の後ろでひとりの他者なのだ」*7

わたしの書くものに価値があっても それはわたしのものではない

それはほかならぬ詩にあるのだ

すべてわたしの意志とまったく関係ないことだ。*8

うちに宇宙をもつペソアが様々な角度から世界を眺め、その視点をもった主体をひとつの人格として切りだしていったというのは、私たちの日々の営みのなかでも親しい。彼は「仮面」という言葉をしばしば使うが、相対する場面によって私たちは日常のなかで様々な仮面を使い分ける。その営為自体を詩としてとらえたところにペソアの偉大さがある。だれも着眼することのなかったささやかな部分をとりだし、ペソアは身近な世界を文学的に語りなおしてみせる。世界を解釈するのではなく、自分自身を解釈し、その過程で生まれた複層的な自己で世界をとらえ直す。

私がこれらの文章をとおしてあなたたちに見せている曲がりくねったこの〈私〉が、現実に存在しているのか、それとも、私が作りあげた審美的な偽の概念にすぎないのか、私にはわからない。(中略)ときどき自分が自分だとわからなくなることもあるのだ。それほど私は自分の外に自分を置き、それほど純粋に芸術的なやり方で自分の意識を用いたのだ。この非現実性の裏側で、私はいったい誰なのか。それは知らない。私は誰かであるにちがいない。生き、行動し、感じることを私が求めないのは――信じてほしい――、私の人格と見なされているものの特徴を乱さないためなのだ。私はかつてそうありたいと思ったものであろうとするのだが、それは今の私ではない。もし譲歩したら、自分を破壊することになってしまうだろう。私は芸術作品でありたいのだ。少なくとも、私の魂においては。(「不穏の書」*9

 

*引用はすべて「澤田直訳『新編 不穏の書、断章』平凡社ライブラリー、2013年」および「池上岺夫編訳『フェルナンド・ペソア詩選 ポルトガルの海』彩流社、2018年」による。

*1:『不穏の書』p.123

*2:ポルトガルの海』

*3:『不穏の書』

*4:『不穏の書』

*5:ポルトガルの海』

*6:『不穏の書』p.56

*7:『不穏の書』「不穏の書」p.53

*8:ポルトガルの海』「事物の驚嘆すべき」

*9:『不穏の書』p.61