ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『水葬銀貨のイストリア』: CG Commentary I

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名言アルバム『イストリア』のCG Commentary第一弾。生きるうえではあまり役に立たないが、誰もが心にとめてあること、そんな形容がふさわしい言葉が多かったような気がする。本作は正義についての深い洞察が見えるけれど、それについては前記事においてある程度ふれたので、今回は記事に盛りこめなかった秀逸な科白をふり返りながら、それらしいコメントを付してゆこうと思う。

 

●「自分を大切にすることが、あたしを守ることに繫がることを、よーく覚えておけばいいのよ」

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『アマツツミ』では「みんなのために自分を守る」という言葉とともに、『CROSS†CHANNEL』では「自分のために、人を大切にして構わない」という言葉を伴って展開された主題。翻ってみるならば、自分を大切にしない人間は他者を大切にできない人間だ、ということになろうか*。自己と他者それぞれに向きあうことが、このように同一視されるというのは、私にとっては至極納得できるものであった。また同じ主題が紫子によって、「わたしくにとって、都合がいいかどうか。物事の判断基準は、常にそこにありますから」と別の角度から捉え返されるところも、本作の複眼的な視座がゆえと言えるだろう。

f:id:SengChang:20180226132105p:plain*また『LOVESICK PUPPIESE』では「自分を安売りする人間は、他人を安く買う人間だ」という言葉が出てくる。

 

●「考えるから、読まれる。論理的に思考を展開するから、そこを突かれる」

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言葉を使えば必ず隙が生まれるもので、それがむしろ話者・書き手の味となって映えるものだけれど、その点を突かれて傷つけられてしまうこともある。言葉を使わなければそんな悲しい思いはせずに済むものの、自分とちがう言葉を用いるひととの豊かな関わりは失われてしまう。

論理もまた同じように、必ず生まれる論理の隙間を逆手にとれば、相手を傷つけることも、はたまた相手の魅力をひきだすこともできるのである。私自身は、論理は必ず崩されるものだと思っており、むしろ論理が崩されたところからが本当の人間関係のはじまりだと思っている。『イストリア』もまた、敗北によって物事が動きだす物語であったことを思いだしてほしい。ひとはひととぶつかってはじめて自分と周囲の歯車を動かすことができるのである。「理を以て非に落ちる」ところから“ひとらしさ”は生まれてくるのではなかろうか。

 

●「この世界は、常に犠牲を前提に成り立っている」

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くだんの論理の例を挙げるならば、自分の否定した論理を知らぬうちに自分が実践してしまっている、という場合が挙げられる。本作ではそうした挿話が意図的に多く扱われている。たとえば、涙の治療を強く否定する英士自身が、涙の治療によって救われた存在であったこと。彼の自己矛盾を「偽善」として糾弾し、居直った生き方をする紫子のほうが、むしろ潔く眼に映るのは決して偶然ではない。どんなに正しく見える論理であっても、それが犠牲にしているもの、覆い隠しているものは必ずどこかに存在する。

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しかし先にも述べたように、矛盾を恐れてしまえば、結局ひとはなにもできなくなってしまうのである。だからこそ英士たちは、自らの善の論理を偽善的なものと認めながらも、自身の論理のなかで善と結論づけたのならば、覚悟をもってそれを貫くべきだという、ある意味で恣意的な主体性を獲得してゆく。相対的な日和見の姿勢に甘んじるのではなく、主体的に偽をひき受ける覚悟をもち、相手の論理に真正面から自分の論理をぶつけてみせる。それは玖々里の「感謝されることを、諦めなさい。自分勝手に助けるなら、あたしはそれを応援するわ」という言葉にもよく現れている。

 

●「彼女の存在のおかげで、僕は生きる目的が出来て」

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小夜だけでなく、英士ともども役割同一性に嵌まりこんでいたわけだが、自己存立の根拠を他者に求めるのではなく、自ら選択して未来を切りひらいてゆく姿勢こそが、最終的に彼らのたどりついた生き方であった。自己の存在基盤を他者に求めるべきではない、という態度は、「自分の心を、他者に仮託するな!」という『CROSS†CHANNEL』の太一の言葉を彷彿とさせる。『イストリア』は一貫して自己を貫き通す姿勢に注視した物語であり、自身の選択を肯定して生きる態度に重きを置くがゆえ、「選択肢」の役割もまた非常に大きな意味をもった。

 

●「苦しみながら、戦いなさい。それが、紅葉の求める僕の生き様だった」

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「もっともがけ。楽に生きようとするな」という、『グリザイアの迷宮』の麻子を思いださせる一節である。『イストリア』はひたすらに不幸が折重なる物語であるが、それゆえ彼らが“生きている”と強く感じるのもまた事実である。物事を偏った視点から眺め、偏執的にこだわり、専心してなにかと葛藤する英士、紅葉といった人物たちの姿はとても文学的であり、本作の文学性をひき立てた大きな要因ともなっている。

⇒『水葬銀貨のイストリア』: CG Commentary II - ワザリング・ハイツ -annex-

⇒『水葬銀貨のイストリア』を読む 前夜(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

 『水葬銀貨のイストリア』を読む 後夜(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

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『時間の闇の中で』を読む(感想・レビュー)

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Ten Minutes Olderというオムニバス形式の連作映画は、様々な映画監督が10分の短篇映画を撮り、それらを短篇集とした束ねた製作企画であった。「イデアの森」と「メビウスの森」の二部から成り、ゴダールが制作した『時間の闇の中で(Dans le noir du temps / In the Darkness of Time)』は前者に属する作品である。ベルトルッチヴェンダースなど錚々たる面々が名を連ね、当時は映画ファンのあいだでかなり大きく話題をさらった。

『時間の闇の中で』はゴダール自身の過去作品や他者の作品、記録フィルムなどからの引用だけでつくられた作品であり、いわゆる本作のためのオリジナルカットはひとつもないのが特徴である。すべて引用という名の編集でつくられた短篇映画だということだ。むろんゴダール特有の文学や哲学からの引用も多分に含まれた、テクストの断片を切り貼りしたコラージュ作品と言えるであろう。

ここでは、下記のページでもとりあげられていた「知の黄昏」についてふれながら、また『映画史』の書籍版からゴダールの言葉を引用しながら、彼の提示した“断片集”とも言える本作について考えてみたい。

『ラッコの映画生活』「10ミニッツ・オールダー ~イデアの森~(4)『時間の闇の中で』ジャン=リュック・ゴダール監督(2002)」https://plaza.rakuten.co.jp/karolkarol/diary/200804070000/

 

●知の黄昏(物語の黄昏)

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ゴダールの姿勢としておもしろいと思うのは、彼が映画を批評として考えているところである。「私にとっては、批評を書くということは映画をつくるということでした」と語るゴダールは、批評とはすなわち相手に耳を傾けさせることだ、と捉える(52)。

人々にわれわれの声に耳を傾けさせるということは、われわれにとっては映画をつくるということでした。・・・・・・私は一度も、映画について語ることと映画をつくることを区別して考えたことがありません。そしてその結果、私は少しも躊躇しないで、自分の映画のなかでほかの映画のことやほかのなにかのことを語ったりするようになったのです。(52)

批評とはまず自分の声を他者に届かせることであるとゴダールは言う。映画のなかで映画について語ることは、小説について小説のなかで語る文学作品ですでに慣習化された手法であったが、ゴダールが映画製作をはじめた50年代はそれが理論として確立されはじめた時代でもあった。そのなかで彼は小説内小説あらため映画内映画を「批評」と捉えたのである。ここを立脚点としてゴダールの物語解体がはじまるのであった。

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ゴダールの作品に登場するおびただしい数の引用テクストは、映画のなかで浮きあがって見えたり、映画の科白そのもののように感じられたり、引用元の作品の印象を喚起する効果がある。それはテクストどうしの豊かな共鳴を読み手が愉しむということであり、ゴダール作品の一番の特色であると言っても過言ではない。彼の作品にはいわゆる筋書というものがほとんどなく、淡々と積み重ねられる断片をどう捉えるかは、あくまで読み手の感性と思考にゆだねられていると言ってよい。

先述のように『時間の闇の中で』は引用で構成された作品である――しかもそのなかには、作品の引用をする場面の引用、という手の込んだ仕掛けすら見られるのである。たとえば、ゴダールの過去作品『ゴダールリア王』における、ヴァージニア・ウルフの『波』の一節を引用する場面が、本作では「歴史の最後の瞬間(Les dernière minutes l’histoire)」という言葉とともに引用される*。英文学の観点からすると、シェイクスピアの『リア王』とウルフの『波』はしばしば比較されるという批評の背景があり、ゴダールが『ゴダールリア王』で『波』を引用したのはおそらく意図的であろう。さらには引用した『波』の一節は、伝統的に詩人が好んで「不滅」の概念と結びつけたペガススを連想させるくだりであり、それを「歴史の最後の瞬間」としてゴダールは捉えたのであった(Woolf 239; Notes 78)。引用のもたらす意味の複層をどのように解して結びつけるかが、ゴダールの発する「批評」の意義であり、「映画」の役割なのであろう。しかしそれはもはや「物語」とは言いがたいものである。アメリカ人はそれらしく物語を語るのがうまい、と皮肉を言いながら、ゴダールは次のように述べる。* histoireはフランス語で「物語」の意味ももつ。

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映画をつくろうとすると、映画を職業にしている人やそのほかの人たちが《物語を語る》と呼んでいることを強制されるのですが、私はこのことについていつも窮屈な思いをさせられてきました。ゼロから出発して物語の発端を設定し、ついでその物語を結末に導くということをさせられるのです。・・・・・・そこに描かれているのはその人物の断片にすぎないのですが、でも不思議なことに、その断片は、人々にある物語の全体を生きたと思わせるものをもっています。そこにアメリカの連中の力があるのです。(100)

引用にかぎらず、オリジナルの科白や映像を含め、それぞの「テクスト」を有機的に結びつけることで、読み手がゴダールの映画をもとに自分だけのなにかを構築することができる。そういった読み手の働きかけを目指してゴダールの映画はつくられている。だからこそ作者によって決められたある種の一意的な物語をゴダールは製作することがない。筋書は作者がつくるものではなく、読み手自身がつくるものだと言うのである。「あとから、物語なり物語の道筋なり、あるいはまた、いくつかのテーマなりをさがし求める」ことになり「自分を物語からいくらか解放することができます」とゴダールは語り、私たちが「物語」という言葉で呼ぶ営為の前提を根本から覆してしまう(101)。

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『時間の闇の中で』においてとても印象的な場面は、本を次々とゴミ袋に入れて捨てる「思考の最後の瞬間(Les dernière minutes de la pensées)」であった*。私たちの在る「現在」は様々な過去の集積によってつくられたものである。そういった歴史を記録・記憶として残すのが書籍であるが、それらを参照する必要のないゆき場のない現在が形づくられ、次第に幅を利かせはじめたのがポストモダンの時代である。大きな物語が終焉を迎え、小さな物語が乱立する、ポストモダン的な知/物語の黄昏がはじまり、いまや知/物語は受継がれるべきものではなくなりつつある。過去をいっさい参照しなくとも脈絡のない断片の連なりで小さな物語が成立する時代。本作はそれを逆手にとり、もとの文脈から切りはなされた断片のみの連なりで物語を徹底的に解体しながらも、知/物語の終焉という“物語”をあえて語り、引用によって過去をふたたび浮かびあがらせるという、実に手の込んだ仕掛けを埋めこんだ作品となっている。しかもその“物語”の全体像は読み手が各々定義すべきものであり、私たちのほしい答えは他者からあたえられるのではなく、私たちが自分で見出すほかないのである。* penséesはフランス語で「思想」の意味ももつ。

 

●付記

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中学から映画の魅力にとり憑かれ、大学のときには年に200本は見ていたし、有楽町で開かれるドイツ映画祭やイタリア映画祭にもよく足を運んだ。文学より以前に自分の知情意を養ってくれたものが映画だったように思う。いまはもうあのときのように映画を必要とはしていないが、自分の大きな財産のひとつと言ってよいであろう。

そして高校、大学のときに夢中で観たのがゴダールの作品であった。ほとんど意味のわからなかった高校生の私が、それでもゴダールを貪るように観た一番の理由は、その映像の美しさにある。映像の詩人とはタルコフスキーに使われる形容だが、私にとってはゴダールこそが映像の詩人であった。言葉遊びや引用の妙だけでなく、ここでは紹介できなかったが、映像をつくりあげる技術はいまだに業界随一であろう。私からおすすめしたい作品は『愛の世紀』『カルメンという名の女』『気狂いピエロ』あたりだろうか。それから最新作『さらば、愛の言葉よ』(2014年)はまだ観ていないが、ゴダールの色が発揮された注目すべき作品のようである。早急に買って観なければ。

〈Works Cited〉

ジャン=リュック・ゴダールゴダール映画史Ⅰ』(1982)奥村昭夫訳、筑摩書房、2004.

Woolf, Virginia. The Waves (1931). London: Penguin, 1992.

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