ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

吉本ばなな『キッチン』を読む

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大学生の時なのでもう13年も前のことである。いまでもよく覚えているのは、大学近くの、いまはもうなくなってしまったカフェでひとり「キッチン2 満月」の一節を紙に書き写したことである。それを財布のなかに大事にしまって、数年のあいだもち歩いていた。こんな文章を書けたらもう二度と小説を書けなくてもよい、とさえ思ったものだ。

西洋の古典ばかり読んできた自分が突然、吉本ばななに惹かれたというのは考えてみれば不思議なもので、その後、長い年月をばななの小説とともに過ごしてきた。その当時読みあさっていた同時代の日本の小説は、当たり前なのだけれど、どれも自分の身のまわりにありふれたものを“異化”してくれる、自分が出逢ってこなかった物語ばかりだった。いわゆるロシアン・フォルマリズムのそれとまではいかないまでも、自分の物の見方を大きく変えてくれる、心を静かにふるわす物語がたくさんあった。そのなかでもばななは私のなかでとても大きな存在だったと言ってよい。

松岡正剛が『フラジャイル』のなかで語っている「吉本ばなながデビュー以来つかっているフラジャイルな感覚だが、かつては大島弓子しかできなかった芸当」は、剝きだしの脆さとでもいうべきもので、“共感”を強く呼び起こすものだった。ばななが世の中に広く浸透した理由を松岡はここに求めており、私もそれに異を唱えるつもりはない。そして皮肉なことに、これこそばななが非文学的だと批判を受ける理由でもあった。

その手を失って、私は人がいちばん見たくないもの、人が出会ういちばん深い絶望の力に触れてしまったことを感じた。淋しい。ひどく淋しい。今が最悪だ。今を過ぎればとりあえず楽になるし、大笑いすることもあるに違いない。光が降れば。朝が来れば。(「ムーンライト・シャドウ」)

寂しいことを“寂しい”と書く、その直截的な描写は、言葉を尽くして語りえないものを語ろうとする文学の営みを否定するようにも感じられる。寂しいことを“寂しい”と書いて事足りるのであれば、言葉はそれ以上必要なくなってしまい、物語る必要もなくなるのであろう。そこに文学は存在しえない。――しかし長い年月が経ったいまも、ばななの物語は私の手許に“文学”として残っている。それはなぜなのか。

文学はつねに現実の真実を写しとるわけではないが、文学が語るものはつねに真実である。たとえばばななが次のように語るとき、私たちは彼女が語りだす真実を、現実のものとして素直に受けとめることができる。それはばななが、私たちの心が強くふるえるある瞬間を、平易でくだけた言葉でもって描写するからである。

彼女たちは幸せを生きている。どんなに学んでもその幸せの域を出ないように教育されている。たぶん、あたたかな両親に。そして本当に楽しいことを、知りはしない。どちらがいいのかなんて、人は選べない。その人はその人を生きるようにできている。幸福とは、自分が実はひとりだということを、なるべく感じなくていい人生だ。私も、そういうのいいな、と思う。(中略)

でもあの至福の夏の、あの台所で。

私はヤケドも切り傷も少しもこわくなかったし、徹夜もつらくなかった。毎日、明日が来てまたチャレンジできるのが楽しみでぞくぞくした。手順を暗記するほど作ったキャロットケーキには私の魂のかけらが入ってしまったし、スーパーで見つけた真っ赤なトマトを私は命がけで好きだった。

私はそうして楽しいことを知ってしまい、もう戻れない。(「キッチン2 満月」)

なにが文学的でなにがそうでないかという、大きな問に踏入ることはここではとてもできないが、百歩譲ってばななの物語が非文学的だったとして、むしろそれが文学のなかで語られはじめた理由こそが、本当に考えられるべき問題なのではないか。ここに語られている真実は、ばななの文学が切りだした私たちの日常の真実であり、美しさであり、絶望でもある。ばななの言葉は、私たちが何気なく日常で感じとる細部にも、文学が宿り、花開く可能性を余すことなく捉えている。

ばななの語る物語は私たちの生活のリアルを鋭く捉えたものばかりである。わかりやすい、読みやすい、共感する、と言われてばかりのばななだが、だれかの心の叫びが“わかりやすく”語られたとき、あまりのなまなましさに思わず顔をそむけたくはならないだろうか――彼女の物語がもつ力はまさにそこにある。普段私たちが避けている真実を次々と突きつけ、私たち自身の脆さを内側から溢れさせる、つまりは“わかりやすく”することが、ばなな作品が文学たるゆえんなのであろう。

野本寛一『神と自然の景観論』を読む

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「神々の風景」は総じて変貌が著しい。それは衰微・荒廃してきているといって間違いない。その変貌と衰微は日本人の「神」の衰微であり、日本人の「心」の反映にほかならない。すべての環境問題の起点はここにある。自然のなかに神を見、その自然と謙虚に対座し、自然の恵みに感謝するという日本人の自然観・民族モラルが揺らぎ、衰えてきているのである。(「緒言」)

人々が自然に対する畏敬の心を忘れかけている現在、かつてほど昔話の力は効力をもたなくなってしまった。それぞれの土地に伝わる古い神話や説話には、その土地に住む人々の郷土への愛情がよくあらわれている。たとえば林業を中心産業とする土地であれば、伐採の犠牲を忘れぬために巨大な神木を祀り、切れば祟があると伝える。川の氾濫に悩まされる土地であれば、水の神を祀ることで水を大切に思う心をみなが分かち合い、水害と共存するよう努めてきた歴史がある。人々の生活と自然とは一体不二の関係にあり、その現実を物語に乗せ語り伝えてきたのが、いにしえの人々の知恵である。森を切拓き、つねに自然の息遣いを感じながら生活することがなくなった今、私たちがそのような“お話”から遠ざかってしまったのは必然であると言えよう。そのなかで静かに警鐘を鳴らしつづける研究者のひとりが、この野本寛一である。

野本は「自然環境論」という言葉を用いて、自然から環境への働きかけと、環境から自然への働きかけの双方から成る、伝承という“物語”を扱いつづける研究者である。先にも述べたように、現在の環境問題の端緒と言うべきものは、私たち現代人が失いつつある神聖への畏敬であり、自然を含めた郷土への愛情にほかならない。その点を踏まえたうえで野本が着目するのは、各土地における信仰と環境との特別な関係である。

まず、信仰の生成基盤としての自然環境を見つめなおしてみる必要がある。(中略)ここには基本的に、自然環境→信仰生成という矢印が見られるが、先にもふれたとおり、これとは逆に、信仰が存在することによって自然環境の保全が得られるという矢印も存在する。さらに、生成された信仰が新たな文化環境・社会環境を生成するという展開も一般性をもっているといえる。門前町の形成や、交通機関の発達による衰退などがその例である。(「緒言」)

環境によってつくられた信仰が、さらに環境を積極的につくってゆく――環境と信仰の一体不二の関係、環境が信仰の対象となり、信仰が環境として人々の生活に組込まれるという、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一の世界がここでは語られている。信仰が深まるにつれて信仰から離れてしまった私たちの歴史もまた、こうした性質からすれば、いわば必然の歴史であったと言うほかない。しかしだからこそ私たちは今、自然に対する眼差しをもう一度とり戻し、ふたたび“お話”に息を吹込む責任を問われている。森を切開くことで、私たちがいたずらに暴いてしまった「奥」にある自然の神秘を、今一度見つめなおす必要に迫られているのではないか。その神秘を余すことなく語ったのが本書『神と自然の景観論』である。

「環境畏怖要因と信仰の生成」「地形と信仰の生成」「聖樹の風景と伝承」「環境保全の民俗と伝承」「神話の風景」と、各章題からもわかる通り、本書は自然を様々な角度から照射し、八百万の神の歴史をたどった研究書である。たとえば、以前ここでもとりあげた「みさき」という言葉の歴史をはじめ、洞窟などに「籠る」信仰と伝承――折口信夫も言及している『竹取物語』の「籠り」など――について、あるいは水をめぐる地形と水分信仰の形成、依代やご神体としての木々についてなど、文学ともなじみ深い多くのテーマが紹介されている。

自然への細やかな目配せだけでなく、細部に宿る物語を大切にし、私たちが確かにアニミズムの文化土壌に育ったことを、本書は思いださせてくれる。私たちの身のまわりのなんと物語で溢れていることか。物語を通してであれば、私たちはこんなにも豊かに自然と対話することができる。野本の研究が教えてくれるのは、そんな自然と人間との数千年にもわたる「からみあい」の歴史なのである。