ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『腐り姫』の基層

f:id:SengChang:20200424162641p:plain腐り姫』についてぼんやりと考え気まぐれに調べることは今も変わらず行っている。『腐り姫』の中心的トポスである神岡町から学ぶことはいろいろあり、地理的な特徴に限らず、歴史や産業についても新たな発見が多々あった。たとえば、私の精神的故郷熊野において、伝統的産業のひとつとして鉱産資源の採掘があったと最近はじめて知ったのだが、これはまさに山奥に位置する神岡町が鉱山にあやかっていた歴史を受けて、似た風土を条件とする熊野はどうなのかと調べなおした結果わかったことでもあった。そのような断続的なとらえなおし、あるいは読みなおしを行うなかで、やはりあらためて記録しておこうとまとめてみたのが今回のこの記事である。

 

●とうかんもり

f:id:SengChang:20200424161106p:plain『腐り姫読本』ではとうかんもりの各地についてカットを交えながら説明がなされている。たとえばワタスゲの咲く枯尾沼は尾瀬、路地裏が三浦海岸、蔵の場所は軽井沢、はりだした家々のある岸辺は京都の伊根というように、多岐にわたる実在の場所からモデルを得ているという。驚くべきは、神岡町の景色を見ると「とうかんもりだ」とだれもが思ってしまうであろうこと。実際にはほとんどのカットが神岡町以外の別の土地をモデルにしているにもかかわらず、神岡町の様子は本当にとうかんもりそのものとしか考えられない。

とうかんもりにある廃鉱や廃駅(奥飛騨温泉駅か神岡鉱山駅?)などは鉱産資源の採掘でにぎわったかつての神岡町の名残と重なる。水銀流出がひき起こしたあの公害問題によって鉱山は封鎖、鉄道も廃線となり、町としてのにぎわいは次第にうすれていったようである。そうのような神岡町の衰退と経済の変化もまた、とうかんもりの町に静かに影を落としているのではなかろうか。

f:id:SengChang:20200424162647p:plain文学においても多くのひとが試みてきたことではあるが、実際の土地と作中の舞台との照合を行うこと自体に大きな意味はない。しかしながら、現実の亀裂に想像/創造を流しこみ、虚実とりまぜた複雑な世界をつくる意義とは、現実の“異化”にあると言えるかもしれない。虚構であるにもかかわらずそれはまったき虚構ではなく、実際に赴いて眼にすることさえできる舞台というのは、私たちの眼の前の現実をつくりかえ、いつもとはちがった色どりを見せる。それは私たちの現実がいかに脆く、とらえ方ひとつで大きく変わってしまうのかを暗に示すものであろう――事実『腐り姫』はそのような物語ではなかったか。

欲望に我をゆるし朽ちてこの世から消えることは、必ずしもヒロインたちの望まぬ結末ではなく、むしろ想いを遂げた歓びにふるえて消えていった芳野や夏生の姿は印象的であった。彼女たちにとって、心を殺したまま生きる現実よりも、生きた心のまま死んでゆく夢の方がはるかに望ましいものであったろう。現実を少しずつずらすことで至るところに亀裂を生みだし、現実と見紛う虚ろな世界を語ることが、『腐り姫』の主題のひとつであったと言えるのではないか。*そのほかグリル「ぎとぎと」が『ツインピークス』のRRダイナーにヒントを得たなどうれしい偶然も発見した。

 

●とうかんもりの神蔵女

f:id:SengChang:20200425161907p:plainとうかんもりの神のひとつに数えられるであろう蔵女については実に様々なものの影を感じる。単なる土着神というわけではなく、万物の生成を司る産土(うぶすな)、また五樹と樹里を矛盾的自己同一の循環に閉じこめる産霊(むすび)であり、また樹里=朱音を生みだす簸川家の母体/母胎でありとうかんもりの土着神であるという点からは祖霊神と見ることもできる。さらに人間と交わる神、すなわち狐の嫁入りの片鱗が見え(前記事参照)、むろん人間そのものとしても描かれているのだから、蔵女に重ねられた像は驚くべきほど豊かだと言える。

日本の神はあくまでひとの形をとったものとしてつたえられてきた。それはつまり、日本の神は私たちの祖先としての祖先神にほかならず、私たちは自身の源である先祖を神として尊び、祀ってきたということである。

人間の全体性はまず神として把捉せられた。しかしその神は歴史的なる「家」の全体性としての「祖先神」にほかならなかった。(和辻哲郎『風土』

いまでは墓にまつわる“死霊”の浄化されたものが、寺でまつる“祖霊”であり、祖霊の昇華したものが“神霊”として神社にまつられたという霊魂昇華説は、民俗学や宗教学ではうたがうもののない仮説である。(五来重『熊野詣』*二重括弧内は原点では傍点

f:id:SengChang:20200426110056p:plain日本における神は人間であり、人間でありながらも人間ならぬ神々しい祖霊なのである。そしてこの神が日本の土地の外からやってきて、やがてある土地に根づき、祖先として祀られたことも思い起こしておく必要があろう。これについては以前の記事折口信夫をひきながら言及した通りだが、以上のような日本の神の特徴をすべてもっている蔵女は、まさに祖霊としてとうかんもりに根づく土着神ととらえてよい。とうかんもりだけでなく、彼女はほかにも様々な土地で人々の願いを叶え、腐らせてきたことから、方々の土地でも同じ類の腐り姫伝説が語りつたえられていると推察される。ここで柳田國男をひくまでもなかろうが、似通った伝承が様々な土地で見つかることは、『腐り姫』のなかでも紅涙博士によって言及されているように、口頭伝承の常識的な特徴でもある。こうした祖霊信仰の伝統を下敷きに独自の“伝承”を語りだしたのが腐り姫伝説なのである。

また、蔵女という名をあらためてみると、やはり本作が蔵の場面からはじまるところが思いだされる。蔵に棲まう女、蔵に“籠もる”神――神的なものが“籠もる”ことについては、折口信夫植島啓司をはじめ、諸方で指摘がある――という姿からはじまるものの、しかし蔵女が簸川の蔵にいる場面は冒頭以外に作中ではほとんど見られない。代わりに蔵にいる者はだれかと言えば、五樹の母親、朱音である。彼女が性的暴行を受けていた現場が蔵であり、蔵女=朱音=樹里という図式は、ここでもまた証左を得ることとなる。

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さらに蔵女には衣通姫(そとおりひめ)の姿も重ねあわされている。今から10年ほど前2010年に興味深いエントリーがあったのでここで紹介しておきたい。

kanakazu.blog94.fc2.com

この記事では、物語冒頭ないし作中でもくり返し出てくる「〽ほうやれほ……*」の唄の解説のほか、蔵女が芳野に向けて囃したてた唄についても言及されている。五樹と樹里の近親相姦の物語は『古事記』に見える衣通姫伝説という近親愛の物語が下敷きにされており、これについては『腐り姫読本』でも言及されている。前述の祖霊の話も然り、日本の神についての物語が、本作では現代の日常を舞台にとらえなおされていると言ってよい。*「ほうやれほ いろせこいしや ほうやれほ いろもこいしや ほうやれほ」

このように蔵女という人物についてあらためてとらえなおしてみると、幾重にも重なる様々な物語が紐解かれ、『腐り姫』がいかにして豊かな物語の交わる作品であるのかがよくわかる。これほど巧みにつくりこまれた物語は文学作品においても決して多くはない――いいや、むしろ『腐り姫』は文学作品であり、私はそれを言うために本作について書いているのである。

 

●付記

f:id:SengChang:20200424161121p:plain勝又進の『赤い雪』という漫画がある。表題作のなかでは「雪女が山姥の垂れ乳と月のものを笑った」がために「赤い雪が降るとみだらな女になるように呪いをかけられた」とある。呪いをかけられた雪女は、赤い雪が降ると発情し、見境なく男に襲いかかる。呪いにかかったのが雪女の方だというのも驚きだが、赤い雪が降って発情する、つまりは欲望に惑溺するというのは、『腐り姫』とおおいに響きあうところがある。赤という色が月のものを連想させ、欲望と結びつけて考えられるのはいつの時代も変わらないらしい。

腐り姫』が世に出てから今年で18年の歳月が経つ。私が本作に出逢ったのは2017年であるから、まだ三年しか経っておらず、しかし本サイトでも異例の5本の記事をこの物語で書いており、これが実に6本目の記事となる。言うまでもなく、他記事のなかでもくり返し本作の議論を引用しており、時間が経つごとに見え方が様々に変わるため、こうして新たにまとめなおすためふたたび筆をとることになる。『AIR』も然ることながら『腐り姫』に至っては、私を日本の信仰と聖地に結びつけたメルクマールとなる作品であり、これからも変わらず特別な作品でありつづけるであろう。

私にとっての聖地とは熊野のことにほかならない。本記事で言及した話題についても、ほとんどがこの熊野についての思索のなかで出逢ったものばかりであり、自分の文学的トポスとして重要な役割を負いつづけている。熊野について書くのはかなり骨の折れる仕事ではあるが、いずれ機会があれば書いてみたいと思っている。

f:id:SengChang:20200424162630p:plainやや話がそれたが、神と自然が顧みられなくなった今の時代だからこそ、『腐り姫』という作品は大きな意味をもつと思っている。野本寛一が『神と自然の景観論』で述べたように、信仰の衰退と自然の荒廃とは緊密に紐づいており、眼に見えないものや人知を超えたものを私たちが自身の奥(=臆)に大切に隠しておくこと、それを忘れてしまったがために、この世は蔭もなく味気ない世に見えてきてしまうのである。決して見通すことのできない“奥”が存在しえない世で、私たちの心の抑圧がいかにして深まるのかは、本作においてこれでもかというほど鮮明に描きだされていた。

今回ノベルゲームについての記事を1億年ぶりくらいに書いた。これが純粋なノベルゲームの記事かと問われれば返す言葉もないが、やはり名作ノベルゲームは何度読みなおしてもよいものである。実は現在手をつけてみたい同人ゲームがいくつかあり、機会を見てはじめたいと思ってはいる。が、なかなか実現はむつかしそうな現状で、いかんともしがたい。やりなおしたいゲームなどもあり、悩ましいところだが、このように付記が思いのほか長くなってしまったので、このあたりで筆を置きたい思う。

⇒『腐り姫』を読む 前夜(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

⇒『腐り姫』を読む 後夜(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

⇒『腐り姫』を読む 補遺(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

⇒『腐り姫』:CG Commentary - ワザリング・ハイツ -annex-

⇒『腐り姫』を読む 補遺Ⅱ(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

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